読書ノート 鶴見良行『東南アジアを知る;私の方法』岩波新書(1995)

鶴見良行『東南アジアを知る;私の方法』岩波新書(1995)

 『バナナと日本人』(未読)の著者として知られている鶴見良行、というのが一番適切な紹介の仕方なのだろうか(僕は不見識なので的外れかも)。姓を見ただけでも「あの鶴見さんの親戚かな?」とピンとくるが、本書に寄せられた、晩年に著者を龍谷大学に誘った中村尚司の文章にも「辺地とはいえ、いとこの鶴見俊輔さんの住む京都への転居は、かれなりに期するところはあったはずである。」(p.218)と言及されている。「期するところ」の含意はわからないが。

 本書は著者の死後出版されたもので、講演記録や過去の発表物から再構成し、著者の方法論後進に伝えることを意識しつつ、1965年以降の著者の歩みをまとめたような内容になっている。

 

 以下抜き書き。

 

 マングローブというのは海水にも生える木です。全部で四〇酒類か五〇種類ぐらいありますが、それが根を張って、だんだん海の方へ出て行く。つまり、マングローブというのは土地を造成しながら増えていく。

 だから現在でもマラッカ海峡は浚渫(しゅんせつ)されているのです。浚渫しなければ、おそらく数千年もすればふさがってしまうのではないか、という海なのです。(p.60)

 

 浚渫という言葉を初めて知った。他に「転移帯」(p.112)、「気水帯」(p.187)あたり。僕がモノを知らないだけである。

 

 第三世界の新興独立国家は、植民地主義の枠から生まれました。そのことを強調しておきたい。したがって、自然的秩序としてのまとまりを破壊されたかれらは、まとまりを、植民地主義への対抗から人為的に創出するしかなかった。(p.78)

 筆者は「あるていど自然の流れにそって、国歌を考えられるようになった日本のナショナリズム」(p.79)として第三世界の新興独立国家」と対比させているが、果たして<日本>をそのように規定することが妥当なのかには個人的には疑問を感じる(比較的、ということなら首肯せざるを得ないのかもしれないが)。

 「ネーション・ステート」についてはpp.129-30にも述べられている。

 

 鶴見は君主や王への「忠誠の選択」を可能にした「移動分散型社会」の生産形態の一つとして焼き畑に着目していた。

 「逃げ出すとは、文字通り他所の土地へ移住することだ。同じような条件の土地はいくらでもあった。焼き畑にしろ漁業にしろ、移動は生業(なりわい)の一部である。農民の田畑は、先祖代々、営々として血と汗を注ぎ込んできたというようなものではない。領主を気に入らなければ民衆はいとも容易に腰をあげて移っていった。」(『マングローブの沼地で』)(p.113 脚注部分)

  『かぐや姫の物語』に、炭焼きの男が、捨丸の所属する集団は「木を使い尽くしてしまうと山が死ぬから」移動した、十年もすれば力を蓄えて山が甦るからまた戻ってくるだろう、この炭焼きがいい例だ、と語るシーンがあったが、『もののけ姫』に出てくるタタラ場に関連して、弥生時代には多くの原生林が消失しているのは製鉄開始によってではないか、とする文章*1を読んでいたこともあり、ジブリの中の人たちに共有されている問題意識が垣間見えた気がした(話が逸れるが、竹取物語かぐや姫が竹から生まれるのは、竹の生育のはやさにひっかけたものではないだろうか)。

 著者も後の方で網野善彦の論を引用するかたちで、日本でも海民から水軍としての武士、供祭人、近江商人が生まれたことを書いている(p.121-2)。

 また、本書では後の方でマングローブ炭について書いている。

 ここでマングローブ炭づくりには時間と手間がかかることを知った。刈ってきたマングローブは三か月も外で干すのである。この一帯はマングローブの保護林で、特別の許可を受けた少数の住民しかマングローブを刈れない。

 かつてTVのキャスターがここのマングローブ林を見事な自然林と語っていたが、私の見たところ二次林である。炭のために伐採するマングローブは、根まで枯らさないので芽をふいて再生している。(p.200)

 

 日本では徳川期、長崎の貿易を幕府が官営貿易という形で独占していた。中国船とオランダ船が入ってくるのですが、中国船は日本から金、銀、のちには銅をいちばんほしがったのです。中国からは染めていない、「白糸」と言っていますが、生糸を持ってきます。

 幕藩体制が比較的安定して、経済が成長するにつれて、当然、通貨を増発しなければならない。それに充てる銀と銅が足りなくなるわけです。元禄時代以後、貨幣が改鋳されて、質が悪くなってきます。そうすると当然、インフレが進行して、幕藩体制の基盤が揺らいできます。

 それで、金、銀と銅の輸出を統制しまして、これに代わるものとして出てくるのが、「俵物(ひょうもつ)三品」と呼ばれたイリコ(ホンナマコ)とホシアワビとフカのヒレです。この三品がバーター商品(註 金銀銅の流出を阻止するために、物々交換で交換された交易品のこと。)として、中国から入ってくる生糸と交換されるのです。

 ですから、日本の幕藩体制の後半期、約一五〇年近くの交易経済を支えていたのは、実際にはナマコだったのです。これを捕っていた、あるいは、ほとんど強制的に捕らされていたのは、国家史に登場しないような海辺の漁民です。なかでも最上の品をつくっていたのは津軽藩と松前藩で、北海道のアイヌの人たちが強制的に捕らされていました。(pp.147-8)

  周縁の民が中央権力の権力基盤化していく過程の典型例のようで面白いが、あまりに単純化した受け止め方をしてしまうのもよくないか。

 

 インドとインドネシアと フィリピンでダムを建設するプロジェクトがあるとする。それについて、事前に環境アセスメントをおこなうには、自然科学・社会科学でしっかりとした訓練を受け、しかも現地語をマスターした五、六人のチームによる一年間の調査が必要です。(p.160)

  先日読んだ『インドネシア;多民族国家の模索』でもODA関係の問題意識は述べられていた。

 

 クルマエビの養殖技術を開発したのは日本人学者 である。(…)

 初年度は自然の抱卵である。エビは抱卵を抑制するホルモンをあの突き出した目の付け根にもっている。それで二年目は人間が片眼をすりつぶしてしまう。さらに翌年は残った眼もすりつぶす。人間は欲望を満たすために自然に対して残酷である。(p.188)

 

 市内で使われるのか、再輸出されるのかたずねもらしたが、東南アジアの炭が香港に運ばれるという話はよく聞く。華人は弱火を「文火」、強火を「武火」といい、料理によって区別する。ぐつぐつと煮込む料理は文火である。これに使うのがマングローブ炭である。(p.203)

  香港映画で屋台で七輪(?)の炭火を使っているのを観た覚えがあるなあ。

 本書ではオイルパームがコレステロール値を高めるので有害と難癖をつける米国を「意地悪く狭量」、自らが輸出する大豆、大豆油、しめかすと輸入するパーム油を使い分ける中国をもっと大人と対比させているところがあったり(pp.167-8)、かつての欧州、<今>の日本・米国に象徴されるような植民地主義・中央中心主義に対して、香港や華人社会を含む<中国>には相対的に好意的な眼差しを感じる。

 

 (*フィリピンのバナナ・プランテーションで働く)彼らは北方からやってきたクリスチャン・フィリピーノです。北方というのは、大地主が支配している土地で、そこからやってきたのは、土地なし農民です。経済用語でいう言葉がないので非常に具合が悪いのですが、”ルンペン農民”です。地主からすればかれらは厄介者ですから、追い出そうとする。みんな国内移民としてミンダナオなどへ入ってきています。

 その人たちが、現在はダバオの小さな自営農家、もしくはその労働者として、バナナ農園で働いているわけです。しかしかれらがやってきた当時、そこには当然、先住民族であるマノボとかバコボ、という精霊信仰の人たちがいました。そういう人たちを追い出しているのです。

 それ以前、戦前期には、一九〇六年ぐらいから、日本人が入って、ダバオで麻農園を開きました。麻農園を開いた日本の移民の六割くらいが沖縄からです。

 貧しいがゆえに、土地なきがゆえに追い出されてきた人たちが、そこに入って加害者になっています。それが現在では、さらにまた被害者になってくる。そういう関係が見えます。(pp.100-1)

 フィリピンの宗教人口は、カトリックが八五%と、圧倒的に優勢であるが、ミンダナオ島では、二〇世紀初頭までムスリムイスラム教徒)が植民地支配を排除していた。

 これに対し、アメリカ植民地時代から今日まで、とくに一九六〇年代のマルコス政権下、ルソン島ビサヤ諸島などの(ミンダナオ島から見れば北方の)土地を持たない農民(ほとんどはクリスチャン)を入植させることで、ミンダナオ全域を支配下におくこと(p.100脚注部分)

 (…)現在、問題となっているダバオの日比混血児の多くは、これら入植日本人の子どもたちである。(p.102脚注部分)

 「貧しいがゆえに、土地なきがゆえに追い出されてきた人たちが、そこに入って加害者になっています。それが現在では、さらにまた被害者になってくる。」とか、ムスリムや先住民居住地にクリスチャン・フィリピーノを入植させたというのは、1950年代ごろまでの日本の移民(棄民)政策やイスラエルの入植地問題*2に(部分的に)通じるものがあると思う。また、<日比混血児問題>は<韓越混血児(いわゆるライダイハン)問題>にも通じるのではないか。

 

 この地域に、国家らしい国家ができるのは、七世紀ごろのスリウィジャヤ王国です。これは国家と言っても、中国が国家であったりインドが国家であったり、ヨーロッパにいろいろな国家があったり、日本が国家であるというのと少し意味が違います。スリウィジャヤは、いくつもの港の連合体です。

 一四世紀末からほぼ一一〇年間、ポルトガルが来て潰されてしまうまでのあいだあったのがマラッカ王国ですが、マラッカ王国港の連合体で、「港市交易国家」と呼ばれるものです。港市交易国家というのは、一つの港でできているのではなく、いくつもの港の連合体なので、縮んだり大きくなったりできる。一つの港が脱落してしまえば小さくなるだけの話ですし、新たに二つ三つの港が加われば広がるわけです。(p.61)

 ここ五年ほど、私はボルネオ最北端のマレーシアのサバ州にオイルパーム農園の調査に通っている。ここはタラカンあたりとは地続き で軽飛行機も往復しているのだが、サバの側にはビニシ船大工がまったく入っていない。ここはフィリピン人、とくにミンダナオ島民の領分である。これはたいへん面白いことだ。

 東南アジア学では対象とする東南アジアを、何とかして一つのまとまりとして構築しようとして、さまざまな仮説が提出されている。私も「島嶼東南アジア」というふうに海の側の東南アジアを一つのまとまりとして考えようとしてきたが、どうやら船文化には”国境”があるらしいのである。(p.212)

  この辺の著者の<国家観>は示唆的な感じがする。

 

 理論や構図は、 支配者がその社会を中央で支配している実際に即して書かれています。こうした史観を渡した、Ⅳ章でも述べたように、「中央主義史観」と呼びます。それは、権力の中央に座っている人の目で見た歴史ということです。こうした権力支配の構図に批判的な史学者も、ちゅおう権力者に眼を留めざるを得ません。そうした形で、左翼にも中央主義史観が影を落としています。

 植民地だった東南アジアに行くと、こうした中央主義史観の眼のゆがみは、いっそうひどくなります。

 植民地主義は、農耕と鉱山で運営されます。しかし、それは、たとえば、イギリス領、オランダ領、スペイン領の全域にわたったわけではありません。

 ジャカルタ、マニラ、クアラルンプールなど、今日の首都は、植民地主義が利益をあげた土地の中心です。逆にいうと、民衆が植民地主義によって、もっとも苦しめられた土地の中心であります。

 ですから植民地主義に批判的であればあるほど、中心が支配した土地に眼を注がざるを得ません。

 こうして史観は二極に分裂します。pro-権力の中心主義と、anti-権力の中心主義です。どちらも中心に目がいっていることでは同じです。(pp.149-51)