読書ノート フランソワ・デロッシュ著 小松優太訳『コーラン;構造・教義・伝承(文庫クセジュ)』白水社(2009)

フランソワ・デロッシュ著 小松優太訳『コーラン;構造・教義・伝承(文庫クセジュ)』白水社(2009)

 

 文献学としてのコーランクルアーン)研究史の概説的な側面もある本だが、文献学に概説が馴染むものなのかなあ、という気もなんだかする。文庫クセジュらしい、大講義室でおじいさんの教授がぶつぶつ言いながら講義してるのを聴いてる感じで、「ふむふむ、そういう研究状況なのね」と、ある意味で感情移入や自分に向き合うことを迫られず他人事として心地よく読める。まあ自分の研究テーマについての必読書がこれだったらついていけず追い詰められて泣きそうになると思うが。

 そもそもクルアーンを呼んでいないとどこの箇所のことを指しているのかわからなかったりする(そもそも読んどけ俺)。中田考訳のクルアーン欲しい。

 

 以下、今後クルアーン読んだときに思い出せるようにメモ。

 

 

ある節の別のある節による廃止

 コーラン二章一〇六「我らがアーヤを廃止したらすぐ、もしくは我らがそれを許可したらすぐ、我らは他の、より優れた同種のものと置き換えるのである」は、ある節を別のある節が廃止し得ることを定めていると解釈されている。例えば、二章二一九「彼らは汝にワインと賭博に関して質問している。言え。『それらは両者とも、人間にとって大きな罪と利点を有している。しかしそこにある罪は有用性よりもはるかに大きいのだ』」、五章九〇「ワイン、賭博、聖石、占いの言葉は、唾棄すべきことがらであり、悪魔の所業である。それらを避けよ」。一六章一〇六はこれらと対立した教え「汝らは、うっとりするような飲み物と、椰子や葡萄の素晴らしい果実を再び手に入れる」。(p.38)

 ムスリムの伝承はここにおいて、アーヤという言葉に「節」の意味を与え、このテキストにおいて食い違っている文章を切断する手段を提供している。廃止したものと廃止されたものの教義の基礎としたのである。先ほどの例において、五章のものは、二章二一九を廃止しており、それ自体が一六章六七の代わりとなった。(後略)(pp.38-9)

 つまり、

二章二一九「彼らは汝にワインと賭博に関して質問している。言え。『それらは両者とも、人間にとって大きな罪と利点を有している。しかしそこにある罪は有用性よりもはるかに大きいのだ』」

一六章一〇六「汝らは、うっとりするような飲み物と、椰子や葡萄の素晴らしい果実を再び手に入れる」

五章九〇「ワイン、賭博、聖石、占いの言葉は、唾棄すべきことがらであり、悪魔の所業である。それらを避けよ」

 となり、新しい教えが古い教えを廃止(上書き?)しており、ムスリムが守るべき教えは五章九〇「ワイン、賭博、聖石、占いの言葉は、唾棄すべきことがらであり、悪魔の所業である。それらを避けよ」である、ということになるのだろうか。

 同じように、「剣について」という特殊な説はより古い一二四を九章五が廃止したという(p.39)*1

 

 

神の名前

 「アッラー(Al lāh)」は語源学的には「神、神的なもの」を意味する単語の前にアラビア語の定冠詞アル(al-)がついたもの。古代アラビア半島に於いてはその女性形「ラート(Lāt)もしくはアッラート(Al lāt)が知られていた。「アッラー」はイスラーム以前の使われ方ではメッカの主神を意味した。(p.55)

(…)ムハンマドの同時代人たちにとって、それは総称的な呼称を復活させることであっただろうし、伝統的な万神殿を信じていた者たちの周りにまず動揺を残すようなものであっただろう。

  一方、ムハンマドと彼の弟子たちにとっては、アッラーは何よりもはっきりと神を指しており、同時に唯一であり真実の名前を欠いた「神」を指していた。

 ときにはそれを指し示すのに他の呼称も使用された。ラッブ(Rabb、主人の意)や、専門家によってイスラーム以前のアラビア半島のイエメンで知られていた神の名(アラム語起源ではあるが)に関連づけられたアル・ラフマーン(al-Raḥmān )は、むしろメッカ期の文章に使用されている。もっとも、ほとんどすべての章の冒頭に見られる決まり文句バスマラ(ビスミッラーヒ・ッラフマーニ・ッラヒーミ)にそれが現れているということは、ある問題を提起する。人びとは、ッラフマーニとッラヒーミが同一の次元の二つの形容詞なのか、それとも一つめのもの―――これは名詞でもありうる―――がここにおいては固有名詞としての価値を持ち、ムスリムの伝統的な解釈によって形容詞のかたちに省略され、「慈悲深き慈悲あまねき神の名において」という意味になる前の、その古代の神聖を取り戻しているのかという問題を議論した。(pp.55-6)

 「慈悲深き慈悲あまねき神の名において」は本来、「慈悲深き神ッラヒーミの名において」あるいは「慈悲あまねき神ッラフマーニの名において」の意味であった可能性があるということだろうか。

 のちに、「美名」という表現から着想を得ることによって(たとえば、七章一八〇*2、もしくは一七章一一〇*3を見よ)、ムスリムコーランに見られる九九の神聖な名前―――あるものはそのままのかたちで、またあるものは似たかたちで―――のさまざまな一群を作り上げた。実際のところは、神聖な性質の一群を構成しているのではなく、これらの形容詞(「美名」)は神聖な本質を定義することに貢献している。(…)(p.56)

  ヴァルホッルにおけるヴァルキュリア表象のクルアーンにおけるフーリ(天女)との類似など、北欧の<異教>がイスラームに影響を受けている可能性も指摘されているが(詰り、ヴァルキュリャの一般的な表象に対して、ヴァルホッルにおけるヴァルキュリャ表象は異質であり、外来のものである可能性)、オゥジンの数多くの異名についてもアッラーの美名との共通点を指摘する文献があった気がする(曖昧)。

 

 

最後の審判とあの世 

 死者の生への蘇りが―――それは魂の不死性の理論を伴っているわけではない―――神のために戦って埋葬された 人びとを除くすべての人間に訪れる。ある節によれば、彼らは実は生きており、したがって一般的運命の例外となっているようである。(…)(p.61)

  天国(ジャンナ、庭の意)は、豊富に水があることによって特徴づけられている。たとえば「そこに小川が流れる庭」であり(九章一〇〇*4)、そしてそこは閉ざされており、その門は善人以外が入ることのできないように守られている。その日陰のもとでは、善人が平和を見出している(一三章二三*5)。彼らの欲求は、風味の良い食事や(五二章二二*6)味の良い飲み物、つまり決して酔うことのない純粋なワイン(三七章四五~四七*7)を飲み食いすることによって満たされる。瞳の大きな若い処女たち、そしてフーリ〔コーランに出てくる天女〕たちが選ばれた伴侶となる(四四章五四*8)一方、若者たちが杯を運んでくる。善人たちは絹の着物や高価な装飾物を身に付けている。ムハンマドの聴衆が目にすることのできる具体的な快楽と比較するような天国における喜びについては、おおよその描写しかない。なぜなら「誰も、私が(信者のために)彼らの行ないへの報酬として用意しているものを知らない(三二章一七*9)」のであるから。(pp.63-4)))

  ジャンナの描写もヴァルホッルやエインへㇽヤルやヴァルキュリャ表象に影響を与えている可能性がどこかで論ぜられていた気がする(超曖昧)。しかし、杯を運んでくるのが若者たちであるというおおっぴらな発想は、北欧<異教>社会ではどのみち馴染まなかったのだろうと思える。ところで若者は何章何節に出てくるのであろうか。時間があるときに探してみよう。

 

 

予定説と自由意志

 「不信心者は、実に汝が警告しようとも警告せずとも変わりはない。彼らは知ることがない。神は彼らの心と耳に封印を置いたのである。また覆いが彼らの目に被さっており、恐ろしい懲罰が彼らを待っているのだ」(二章六~七)

 予定説が、この節や、また同じ意味をもった他の節には芽生えているようであ(たとえば七六章三〇*10.他には九章五一*11)。神意は、人間存在に関わるすべてのことに決定的な役割を果たしている。とりわけ彼らをまっすぐな道に導いたり、もしくは彼らを迷わせたりするさいには。にもかかわらずもう一方で、人間はみずからの行動すべてに責任を負わなければならない。少なくとも以下に言われているような結果が伴うのである。

 「もし汝らが、禁じられている大罪を避けるのならば、我らは汝らの悪行は赦し、名誉をもって天国へ導こうではないか」(四章三一)もしくは「神は、神の徴を信じない者たちを導きはしない。恐ろしい懲罰が彼らを待っているのだ」(一六章一〇四)(pp.57-8)

イスラームシャリーア (charī'a)がムハンマドの死後何十年たってからでなければ、その完全な形式化をなしえなかったのと同様に、イスラームの教義において、この体系を詳細に検討するさいに、コーランが重要な情報源であることには変わりないが、唯一のものではない。多くの点において伝統的な知識人は、彼らの論証を支えてくれそうな文章の論拠を引っ張り出してきた。たとえば、いくつかの解釈では、啓示に予定説が含まれていると見なすために、二章六~七*12や一四章四*13が引き合いに出されるが、自由意志を支持するコーラン解釈の信奉者は、四章三一*14を強調する。(pp.77-8)

 

 

聖書(ユダヤキリスト教的伝統)などからの借用・影響関係

 

 全体としてごく最近まで、研究者は、ほぼ文字通り聖書を引用している二つの節を除いて(二一章一〇五*15が詩編三七-二九*16出エジプト記二一-二三~二五*17レビ記二四-一七~二〇*18)、正確な対応箇所を見つけるのに苦労した。その他の場合、状況は もっと混乱している。旧約聖書と関係をもっているであろう要素の典拠が直接的にそうあるわけではない。それはヨセフの物語で「創世記」と違っている部分があるということによって明らかである。新約聖書の人物、とくにイエスは、揺籃期の外典福音書に部分的に由来しているようである。マリア、受胎告知、降誕、そしてイエスの幼年期に関係している話は明らかにこれらのテキストに依拠している。イエスと瓜二つの人間が磔刑にされたという話も同じくこれに由来している(四章一五七*19)。そのうえ、コーランにおけるイエスは、キリスト教の典拠には平行箇所が存在しないような発言を何度も行っている。

 同様に、その一部はロクマーンという人物に結び付けられる(とくに三一章一二*20など)知恵物語の断片の存在が見受けられる。それは、しばしば聖書や予言的人物と結びついた、「賢さ」の重要性を強調している。この格言という文学的ジャンルは、同時にユダヤキリスト教的伝統の一部をなしている。小説的な話、一方ではアレクサンドロス大王伝、他方ではエフェソスの七人の眠り人の伝説、これらはコーランによって語り直された。まず、二つの節のうちの一つにおいて、アレクサンドロスモーセに置き換えられていることは記しておかなければならない(一八章六〇~六四*21)最後に、マニ教からの影響の問題は、「預言者の封印」の概念と関係して示された(三三章四〇*22)。これらの異なった要素については、依然として宗教史の専門家にとっての調査領域である。ムハンマドへの情報提供者の同定は、こういった影響を与えることができた仲介者を見つけることを可能にしてくれる(Gillot C., Les <<informateurs>> juifs et chrétiens de Muhammad. Reprise d'un Problème traité par Aloys Sprenger et Teodor Nöldeke, Jerusalem Studies in Arabic and Isram, 22 (1998), p.84-126)。 

 ユダヤ教から借用された要素の研究は、北東アラビアにおけるユダヤ人共同体の存在が知られているのだから、当然のことである。(後略)(pp.127-8)

 処刑されたのは別人であるとするような外典は確かに聞いたことがある気がするが(超曖昧)、どちらもイエスの神性を否定しているのだろうと解釈できるにしても、クルアーンと特定の聖書外典との間に直接の関係を断定する材料にはならない気がする。否定論は似通ってくるものでもあるだろうし。いずれにせよ、既に流布していた否定論をクルアーンが採用した程度であったとしても、独創ではないのだろうとは推測できるだろう。

  特定の情報提供者がいなければユダヤキリスト教的伝統についてムハンマドが知り得なかったという想定もちょっと疑問である。特に旧訳聖書に取り込まれたような伝統は、デロッシュも「(…)、それが一般的に「昔の人たちの書いたもの/物語」であると言及されるほど(二五章五*23ムハンマドの聴衆がその歴史に親しんでいたことを示している。」(p.127)と述べるように、アラビア半島では昔話や諺言など様々なかたちでもお馴染みのものであったのではないか。p.127の続く文章も含めて改めて引用しておく。

(…)、それが一般的に「昔の人たちの書いたもの/物語」であると言及されるほど(二五章五)ムハンマドの聴衆がその歴史に親しんでいたことを示している。ただし、テキストが 暗示に留まっていることは珍しくはない。ヨセフの物語は、スーラ全体を占めているという点で(一二章)、例外である。とりわけより後期のスーラにおいては聖書が明確に言及されている。そこではしばしばトーラーや詩篇福音書が問題にされている。福音書に関しては、単数形で現れており、正典的な四つの福音書の存在が知られていなかったということを推測させる。(p.127) 

 

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*1:九章一二四「(新たに)1章〔スーラ〕が下る度にかれらのある者は言う。「これによってあなたがたの中、誰が信心を深めるであろうか。」本当に信仰する者は、これによって信心を深め、喜ぶ。」

九章五「聖月が過ぎたならば、多神教徒を見付け次第殺し、またはこれを捕虜にし、拘禁し、また凡ての計略(を準備して)これを待ち伏せよ。だがかれらが悔悟して、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をするならば、かれらのために道を開け。本当にアッラーは寛容にして慈悲深い方であられる。」

ここに対応関係があるようには見えないので、一二四は別の章であろうか。

クルアーンの文章は伊斯蘭文化のホームページ内の日本ムスリム協会発行
「日亜対訳・注解 聖クルアーン(第6刷)」
より引用。以下クルアーンからの引用はすべて同サイトの「日亜対訳・注解 聖クルアーン(第6刷)」より

*2:最も美しい凡ての御名はアッラーに属する。それでこれら(の御名)で、かれを呼びなさい。かれの御名を冒涜するものは放っておきなさい。かれらはその行ったことにより報いられるであろう。」

*3:言ってやるがいい。「アッラーに祈れ。慈悲深い御方に祈りなさい。どの御名でかれに祈ろうとも、最も美しい御名は、凡てかれに属する。」礼拝の折には、声高に唱えてはならない。また(余り)低く唱えてもいけない。その中間の道をとれ。」

*4:イスラームの)先達は、第1は(マッカからの)遷移者と、(遷移者を迎え助けたマディーナの)援助者と、善い行いをなし、かれらに従った者たちである。アッラーはかれらを愛でられ、かれらもまたかれに満悦する。かれは川が下を永遠に流れる楽園を、かれらのために備え、そこに永遠に住まわせられる。それは至上の幸福の成就である。」

*5:かれらは、その祖先と配偶者と子孫の中の善行に励む者と一緒に、アドン(エデン)の園に入るであろう。そして天使たちも各々の門からかれらの許に入(ってこう挨拶す)るであろう。」

*6:「またわれは果物、肉、その外かれらの望むものを与えよう。」

*7:45.清い泉からくんだ杯は、かれらにゆきわたり、
46.真白(な美酒は)、飲む者に心地よい甘さ。
47.これは、頭痛を催さず、酔わせもしない。

*8:このようにわれは、輝いた大きい目の乙女たちをかれらの配偶者にするであろう。」

*9:かれらはその行ったことの報奨として、喜ばしいものが自分のためにひそかに(用意)されているのを知らない。」

*10:だがアッラーが御望みにならなければ、あなたがたは欲しないであろう。アッラーは全知にして英明であられる。」

*11:言ってやるがいい。「アッラーが、わたしたちに定められる(運命の)外には、何もわたしたちにふりかからない。かれは、わたしたちの守護者であられる。信者たちはアッラーを信頼しなければならない。」」

*12:6.本当に信仰を拒否する者は、あなたが警告しても、また警告しなくても同じで、(頑固に)信じようとはしないであろう。
7.アッラーは、かれらの心も耳をも封じられる。また目には覆いをされ、重い懲罰を科せられよう。」

*13:われはその民の言葉を使わないような使徒を遣わしたことはない。(それはその使命を)かれらに明瞭に説くためである。それでアッラーは、御好みの者を迷うに任せ、また御好みの者を導かれる。かれは、偉力ならびなく英明であられる。」

*14:だがあなたがたが、禁じられた大罪を避けるならば、われはあなたがたの罪過を消滅させ、栄誉ある門に入らせるであろう。」

*15:「その日われは、書き物を巻くように諸天を巻き上げる。われが最初創造したように、再び繰り返す。これはわれの定めた約束である。われは必ずそれを完遂する。」

*16:「主に従う人は地を継ぎ/いつまでも、そこに住み続ける。 」

訳文は、新共同訳。一般財団法人日本聖書協会聖書本文検索より。以下聖書からの引用はすべて同サービスより。)))、五章四五((「われはかれらのために律法の中で定めた。「生命には生命、目には目、鼻には鼻、耳には耳、歯には歯、凡ての傷害にも、(同様の)報復を。」しかしその報復を控えて許すならば、それは自分の罪の償いとなる。アッラーが下されるものによって裁判しない者は、不義を行う者である。」

*17:「23:もし、その他の損傷があるならば、命には命、 

24:目には目、歯には歯、手には手、足には足、
25:やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」

*18:「17:人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。 

18:家畜を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う。 
19:人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。
20:骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。 」

*19:「「わたしたちはアッラーの使徒、マルヤムの子マスィーフ(メシア)、イーサーを殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だがかれらがかれ(イーサー)を殺したのでもなく、またかれを十字架にかけたのでもない。只かれらにそう見えたまでである。本当にこのことに就いて議論する者は、それに疑問を抱いている。かれらはそれに就いて(確かな)知識はなく、只臆測するだけである。確実にかれを殺したというわけではなく。」

*20:「われは(以前に)ルクマーンに、アッラーに感謝するよう英知を授けた。誰でも感謝する者は、自分の魂のために感謝するのである。だが恩を忘れる者がいたところで、本当にアッラーには、何の問題もない。かれは讃美される方である。」。三一章自体が「ルクマーン章」と呼称される。

*21:60.ムーサーがその従者にこう言った時を思え。「わたしは2つの海が会う所に行き着くまでは、何年かかっても、(旅を)止めないであろう。」
61.しかしかれらが、2つ(の海)の出会った地点に辿り着いた時、かれらの魚(のこと)を忘れていたので、それは海に道をとって、すっと逃げ失せてしまった。
62.かれら両人が(そこを)過ぎ去った時、かれ(ム-サー)は従者に言った。「わたしたちの朝食を出しなさい。わたしたちは、この旅で本当に疲れ果てた。」
63.かれは(答えて)言った。「あなたは御分りでしょうか。わたしたちが岩の上で休んだ時、わたしはすっかりその魚(のこと)を忘れていました。これに就いて、(あなたに)告げることを忘れさせたのは、悪魔に違いありません。それは、海に道をとって逃げました。不思議なこともあるものです。」
64.かれ(ムーサー)は言った。「それこそは、わたしたちが探し求めていたものだ。」そこでかれらはもと来た道を引き返した。

*22:ムハンマドは、あなたがた男たちの誰の父親でもない。しかし、アッラーの使徒であり、また預言者たちの封緘である。本当にアッラーは全知であられる。」

*23:またかれらは言う。「昔の物語で、それをかれが書き下したのである。それを朝夕、口で言って書き取らせたのである。」」