fifteen-twelve②

筏のまちの時分、中学生に上がったばかりの頃だったか、国語の時間に好きな作家を発表させられて「ガンダム富野由悠季」と答えた僕に、国語教師が「そんなこと云って、後悔しない?」とちょっと怒ったような口調になったのを覚えている。僕の子ども部屋の本棚にはにはルイスやリンドグレン、コロボックルのものがたり、コンティキ号の冒険記などがびっしりと並んでいて、小学四年生くらいまでにはそれらをあらかたは読みあさっていた、国語教師好みのエピソードだってあったのだから、きっとかの女を満足させるような回答もできたのだろうけれど、転勤族の家庭で、更には何かと気の利かなかったり、乗り遅れるタイプで遊びの輪に入りきれない子どもだった僕は、本の中でしか子どもの世界を知らない飢餓感、涸(かわ)き、を抱えていたから、その時期むしろ、ナルニアやピッピ、わんぱく天国の世界に何か恨めしさ、憎々しさ、そして後ろめたさのようなものを覚えていたように思う。

今思うと、富野由悠季の小説にはその不全感に通じ合うものがあったのかも知れない。

14歳で引っ越すまでのあいだ、僕は筏のまちの商店街にあった駄菓子屋で、当時のSDガンダムカードダスを「大人買い」しては、たまに同級生に目撃されて笑われたりしていた。小六のときにまったく勉強せず授業中に漫画ばかり描いていて、中学に上がる頃には割り算も忘れているくらいになっていた僕は、わかりやすく勉強に遅れはじめ、小学から持ち上がりでいじめの標的にもなっていた。その頃僕は「レール」というものから外れつつあることをぼんやりと感じながら、奪われた子ども時代への執着にも曳かれ、共に遠ざかりゆく過去と未来の股裂き状態にあり、転落も間近のようだった。