恐い女(黄色い「ベスパ」は洒落のつもり?)

(注意!!マニアックなネタなので読まれる方は引きまくりの可能性アリ、です(笑い))


カテジナ・ルースは嫌な女である。

起動戦士ヴィクトリーガンガム』というアニメは、大抵この一言で表現される(そうでなければシュラク隊メンバーの瞬殺ぶりへのコメントくらい)。

僕は、ガンダムのファン、というよりも、トミノガンダム原理主義者を標榜する富野由悠希製作のガンダムシリーズの信者だった。

ガンダム>といっても、若い世代には、大した思い入れもない人が増えているのだろうけれど、『Zガンダム』以降の第2次ガンダムブーマー世代の僕は、ファーストガンダム世代の<真面目さ>はないが、日常生活にガンダム関連グッズが氾濫する中で小学校高学年位の時期を過ごし、愛読書は「コミックボンボン」、小説版『逆襲のシャア』が人生の手引書、という、間違った方向で<ガンダム>を血肉として成長した人間なのである。

だが、「SDガンダム」に主導されたガンダムキャラクターグッズのブームも下火となり、中学校高学年となって小難しいものに憧れる時期に始まった久々のガンダムテレビシリーズのルックスは、その頃には学校で小説版ガンダムを臆面もなく人生で最も影響を受けた本として挙げるほど、富野由悠希をグルーとして純化していた僕の目から見ても、あまりにも<幼稚>だった。

アニメ世界名作劇場のタッチを髣髴とさせるキャラクターデザイン、<V2ガンダム>の胸に臆面もなく飾られた<V>の字。小学生時代、ガンダムの世界をリアリティのある大人の世界として背伸びして覗き込むことに喜びを感じていた僕にとって、突然まったく逆の方向性に振れた「ヴィクトリーガンダム」はほとんど許しがたいものにすら見えた。作品の半ば頃には主人公ウッソ・エヴィンが死亡して物語が仕切りなおしになればいいのに、と本気で願っていたほどで、最終回を迎えたときには、そのあまりの散漫な印象に、「これはウッソという少年が主人公のドラマではなく、群集劇だったのだ」と知ったぶりの知識を総動員して自分を納得させるしかなかった。

かつてのガンダム少年たちも「ヴィクトリー」放送時には、大体が僕と同じような落胆というか、呆気にとられる経験をしたようで、それが冒頭に記したようなたった一言の感想にすべてが集約されてしまう原因なのだろう。

だが、僕にとっての「ヴィクトリー」は、大学生になった頃には「かなり好き」な存在に変化していた。「ヴィクトリー」放送終了後の富野由悠希監督の手を離れた<ガンダム>が、その名を汚すあまりに玩具的、アイデンティティ崩壊的なルックスをしていた(内容はほとんど見ていないのでこの際言及しないにしても)ことが、相対的に僕の中での「ヴィクトリー」の価値を上げていたことや、「出来の悪い子ほどかわいい」という、あまりの低評価ぶりに擁護する意識が芽生えていたこともあるが、一番の理由は大学に進学してヴィデオでシリーズを見直してみて、話のグダグダ感など、相変わらず気に入らない部分はあるが、結構楽しめるところもあるやん、と気づいたことだった。

特に変化していたのは最終話に関する感想、と、いうよりもカテジナ・ルースというキャラクターに関する認識だ。

トミノガンダム」における二大<嫌な女>は、『起動戦士Zガンダム』におけるレコア・ロンドと「ヴィクトリー」のカテジナ・ルースということで殆ど衆目は一致していると思う。レコア・ロンドに関しては僕も好きになれないことは認めざるを得ない。ふたりの男を両天秤に賭ける計算高さと女性の性を理由にそれを自己正当化する面の皮の厚さが嫌悪感を惹き起こすのだ。

つくられたキャラクターがこのような<嫌さ>を身に付けていることこそが、クリエイター富野由悠希の優れた点である。これは散々語り尽くされた話題ではあるが。現在のアニメーションにおけるキャラターが、<萌え>とか<ツンデレ>といった、受け手にとって不快な要素を取り除いた安全な<属性>に分別し易く設計され、受け手があえて望まなければ生々しい臭みを嗅がずに済むように配慮されているのに対し、富野由悠希の生み出すキャラクター、特に女性のキャラクターは、実物の女以上に女らしい生臭さに満ちている。実物以上、というのは、富野の描く女性に比べれば、我々が普段目にする女性の殆どが、むしろ作りものじみた嘘くささを身に付けているからだ。そこが富野作品のフィクションたる所以でもある。富野由悠希の作劇法はむしろ大時代的で、人間の芯喰ったところをずばりと提示する。だが、現実はむしろ逆で、生身の人間の多くはフィクションをまとい、自らを呑み込み易くオブラートで包むことで他者に媚び、傷つくまいとする。富野作品の女たちは自らのイタさを隠そうとはしないのである。

カテジナ・ルースレコア・ロンドとは異なり、計算高い女ではない。外面的な行動は似ている。共に主人公たちから去って敵対する側につき、その有力者の情人件直属の戦闘員となる。だが、レコア・ロンドの行動が賢い選択とはいえずとも一貫して利己的な衝動にあえて身を任せた結果であるのに対して、カテジナ・ルースはただ状況に流され、自ら選択したと己にいい聞かせてはいても、実はまったく主体的判断はない。かの女には自分にとって快か不快か、有利か不利かという感覚さえなく、気がつけばその立場に行き着いていたというだけなのである。カテジナ・ルースは当初から、資産家の娘でなまじっかな美貌を持って生まれてきたせいで、世界を大所高所で捉える見識も持たず、ただ若い女に現を抜かす父親への嫌悪感がもたらした潔癖症からのみ発言する頭空っぽなお嬢様として描かれていた。彼女の容貌に片思いしていた覗き癖のある主人公ウッソ・エヴィンも現実を知らないという意味では似たようなものだったが、かれが幼馴染のシャクティ・カリンを護るという使命を自らに課すことで、状況に対するスタンスを築き上げていったのに対して、カテジナ・ルースは最終話に到るまで、恋人ならこうすべき、理想に燃える闘士ならこうすべき、というような、出来の悪い小説からでも得たようなフレームに自らを当てはめることで、きっとこうなれば幸せなんだ、と自分に思い込ませながら歩いている、世間知らずのお嬢ちゃんのままである。だからこそ、情人のクロノクル・アシャーに男になってもらわなければ困るんだ、と呟いてみたり、ウッソから自分への憧れが消えれば焦ってみたり、クロノクルがウッソに殺されれば、私はクロノクルを愛してしまったからウッソのものにはなれない、といってみたり、支離滅裂な言動はカテジナが狂っているのではなく、ただ、こうでなければならない、と、一貫しないテレビ・ショー的な点の常識に知らず知らず従って発言しているだけなのだ。

これは非常に恐い女である。自ら何かを利己的に判断して振舞うレコア・ロンドのような人間ならば、自らの小賢しさ、利己性に本来自覚的なのだから本人が責任を取ることから逃げるのを止めれば話も通じる可能性がある。だが、カテジナ・ルースはそもそもそういった小ズルさを身に付けておらず、いっぱしの女のように振舞おうとしていても、内面的には同年代(17歳)の他の娘よりもむしろずっと幼いのだ。たまたまセックスした相手が自分よりもずっと精神的に大人の男性ならそれでもいいかも知れないが、そもそも本人が20歳のまだ女の恐さも知らないネンネであるクロノクルがカテジナを導くことが出来ようはずがない。よって、カテジナは、周囲にいくら甚大な迷惑をかけながら生きていようが、自らの非を悟ることができよう筈もなく、その上最後には視力を失って生き延び、自分が戦場で殺戮したひとびとの残された家族友人とすれ違ってもその痛みを目に焼き付けることすら叶わない。徹頭徹尾、<大人になる>ことができない娘なのだ。

なんだ、やっぱりカテジナ・ルースって嫌な奴じゃないか、と思われるかもしれません。でも、ここからは好みの問題で、僕、計算高いのは好きになれないけれど、カテジナの性格結構好きなんですよ。いや、かなり好みだったり。

女性的な、自らの肉体に立脚した切り札に気づかない(あるいは封じられた)産まず女的なアイデンティティ不在の錯乱。夏目漱石の『道草』とか『三四郎』に出てくるような世紀末的退廃感に満ちた感じの女性像。井上靖の『蒼き狼』における忽蘭(クラン)のような女性シャーマン的な美しさ。ある意味少年
愛的に倒錯気味な感じですが、いまだに母性愛と異性への愛が女性の中で両立することに懐疑的なせいかも知れません。かなりマザコン的解釈で嫌になりますが・・・。まあ、フィクションの世界でまで、包容力のある女性とか求めるのもどうかと思います(開き直り)。

カテジナ・ルースを忽蘭とかと同列に並べるのも違う気がしますが、こういう計算のできないどっかネジが飛んだような女性の錯乱気味のところを見てるだけでなんだか充実感を覚えるのは男としておかしいのでしょうか?いいや、きっとこういうひとは実は多い筈だ、僕はおかしくないぞ~(笑)。


3年半前の記事を再掲。今となってはイスラム原理主義組織と重なって見えるほど理想に殉ずることを規範とするリガ・ミリティアの面々よりも、カテジナをはじめ、クロノクルらザンスカールの面々やウッソの父親のような俗で様々なロールモデルのイメージに振り回されるひとたちの方が<普通>に見えますね。散々語りつくされたことですけど。