fifteen-twelve④

毎日、戦争で、災害で、不慮の事故で、病気で、あるいは自ら、あるいは親の手によって、数しれぬいのちがうしなわれている。どこかの歌の歌詞のようだが、どれだけのいのちがうしなわれていようが、ひとは近しいものの死によってしか、それを実感できないにだという。では、どれほど近ければひとは死を身近に感じられるのだろう。

祖父母や親戚、僕に係るひとの多くが既に世を去った。でも僕がこれまでにほんとうに抑えきれず慟哭したのは、僕が拾ってきた猫が亡くなったとき、その一度だけに過ぎない。

近さとは何なのか。理解とは何なのか。

僕は今もそれがわからないままだ。

ひととひととは、言葉を持つ、交わす、抉り合う、それができるということ、になっている。でも、ほとんどの言葉は交わることなく、出会うことなく、届くことなく、ただ、空を切る。こんなことを話したかったのではなかった、こんなバカげた言葉で苦笑いを呼びたかったわけではなかった、と思いながら、焦れば焦るほどに、本当に話したかったこと、をますます見失うだけ。

風の中に編み込まれていく言葉を見つけるべきだ。

絡みにからんで、切り離してもバラバラに散る言葉たちではなく、風の中にたるむことなく、まっすぐに織り込まれていく言葉たちを、カタコトとリズムに乗って。

だから、僕の人生のシーンにおいて、重要な言葉の多くは、語られた言葉ではない、会話体にはなり得ないのだ。語られぬことをこそ、と書いたのは誰だったか。

僕は書く、それは、あなたにあの日語りかけたかったことば、語りたかったのに口にする前に見失ったことば、あなたの言葉と交差して、出会うべきだったことば、ーーーそうであってほしい。

僕はつながりを持ちたい。

結局のところ、それが言葉をなげかける、毛糸玉をうまく投げて届かせる、そしてーーー、それをあなたにまた投げ返してほしい。

それが、切望なのだ。