ガラスの動物園

 「『ガラスの動物園』というアルバムのすべては、ひとりの女性に向けてつくった・・・」

 『九州少年』に、こういう意味のことが書いてあった。女性、というのは、甲斐よしひろがデビュー時九州に残してきて、『ガラスの動物園』レコーディング前後に別れたという恋人のことだ。

 それを読んだときは気づかなかったが、考えてみればそのアルバムのタイトルが「ガラスの動物園」というのは皮肉にも取れる。

 「ガラスの動物園」はいうまでもなく、テネシー・ウィリアムスの戯曲からその名をとっている。ガラスの動物園は閉ざされた家庭か抜け出すことができず、孤独の中に狂気に呑み込まれていく、主人公の姉ローラが心の慰めとしたガラス製の動物の置物のことを指す。

 甲斐よしひろが本当はどんな気持ちでこのタイトルを選んだかはわからない。だが、少なくとも文学少女だったというかれの(元)恋人には、かれの非難のことばに受け取られたかも知れない。

 あるいは、無自覚に残酷になることでしか、男はみずからの魂の殻を守れなかったのかもしれない。
 

 ♪愛のあかりをすべて 点けておいて
  きみはこの部屋から いきなり消えた

  水を流しっぱなしで きみは出ていっちまった
  俺を残し 出っぱなしさ
  水がこの目から

                   「橋の明かり」

 20年、というときを経なければ、男は胸を無防備にすることができなかったのか、という思いに囚われる。

 もし20年前、故郷(まち)を出るとき、東京で彼女を抱きしめたとき、別れの手紙を読んだとき、割れたガラスにうつしてしか心を遠くから見せられなかったそのときに、裸の脆いことばを曝け出していれば、かの女は去っていく足を留めたかもしれない。なぜなら、かの女もきっと、そのことばを待っていたのだろうから。

 ばらばらに砕け散ろうとする男の心は、石と化すことでしかその容(かたち)を保つことが出来なかった。20年、ゆっくりと広がった隙間から、ことばが、愛が溢れだしてくる。

  ♪ねえ くるみ
   あれからは一度も 涙は流してないよ
   でも 本気で笑う ことも少ない
                   「くるみ」

 30年、男は深い共感と慰謝(なぐさ)めをもって、唄いかけることができるようになった。

 胸の風穴は塞(ふた)がることはなく、かさぶたを破って流れ落ちる血に膝まで浸かりながら、愛するひとを想う心はより深く、暖かだ。
 過ぎ去ったひと、生まれ来るひと、傍らにある愛、血の温もりは確かに、男を弱くしたが、取り戻させもした。


 30年、時はすべてを癒さない、だが、解きほぐしていく。