渇いた街

 アルバムって、実は10曲あったら10の切り口があって、1曲からアルバム全体、他の9曲についても同じ視点で語ることができ、なおかつ他の曲を通しても角度の違う視点から全体を語ることができる、というのが理想のあり方だと思っていて、まあ別にそれはアルバムに留まらず、そのアーティストのキャリア全体を俯瞰することができればもっといいわけです。

 やっぱり甲斐よしひろというひとは、そういう視点で見やすい、ストーリー性のあるアルバム、曲群を生み出してきているように思えます(まあ、思い入れの問題で、他のアーティストもファンのひとにとってはそうなんでしょうが)。昔いわれていたように、「甲斐バンドは語りたくなる音楽だ」っていうのが多分にあるんじゃないかと。

 そういう意味でいうと、この「渇いた街」っていう曲は、凄く語りたくなる曲だと思うんですよね。

  なまり色した ひとけのない海に
  いく筋もに走る 光をみたことがあるか

  白樺にふりそそぐ 三月の紫の雨を
  息をのむ景色に あの日ふたりはいたのに

 冒頭から凄く視覚的な詞。冬の終わり、春の到来を告げる冷たい雨の情景がぱっと浮かんできます。紫の雨なんて見たことないけど、将来どこかでこの歌詞と同じ場面に実際に自分が立つことがあるような、そんな既視感に胸が動悸動悸したのを覚えています。

 春というと希望の季節のような気がしますが、実は歌の中では死、別れを暗示することが多い。これは面白いですね。愛とは夏に始まって、冬の暖かい家の中で最良の思い出になり、春とともに衰え死んでまた新しい愛に生まれ変わるものなのかも知れない。この歌の春も、終わりの予感がある。ですが、本来次の恋が始まっているはずの夏(きせつ)にも、かれは未だ終わりに逆らって愛が生きる道を探している。

 歌という自己完結した世界では、大体一年で一区切りがついちゃうんですね。今年の夏去年の夏のことを思い出しているとき、その恋は終わっている。ですが、この曲は1年で決着がつかない。これは異常なことです。梅雨に雨が降らず、すべてを洗い流してくれなかった、一年を区切る摂理が崩壊し、ひとびとはこころのバランスを失っている。これは十二年前に特有の主題ではなく、実は今はもっと進行していますね、現象面から見ても心象面から見ても。

 KAIFIVEの頃から、甲斐よしひろは意識的にこういった特異なシチュエーションの曲を書くようになってきていると思います。「四月の雪」しかり、「切ない痙攣」しかり。そしてこのアルバムに至って、甲斐よしひろは動物的な<青春>の終わりに抗って、青の蒼さに留まり続けようとする精神を描くことに正面から取り組み始めています。「かけがえのないもの」、「愛と呼ばれるもの」……。栄光のときにすがるのではなく、扉を開けて翳りゆく部屋に歩みいることを受け入れながらも、なお、命を輝かせようとすること。自然の摂理からすれば異常なことでも、今日を、明日を戦う、命ある限り個としての真の尊厳を勝ち取ろうとする、そのかたちを模索すること。それは近代に始まったことではなく、古代メソポタミアギルガメシュ叙事詩にもはっきりと認められる人間普遍の挑戦であり、甲斐よしひろが若者受けの流行り歌から、異なる段階に進んだことを示しています。
  
 病み、衰えていく愛を見殺しにしない、あの三月の景色から時間を進め始めるための雨が街を潤すのを切望する男の叫び。それは滑稽に見えても、胸の奥底に眠る愛するこころにはコンクリートをこえても届くのではないか?愛は死ぬのではなく、種になって眠るだけなのだと。コンクリートを突き破って生えてくる花、瓦礫の中に咲く花のように。

 最近、この『太陽は死んじゃいない』というアルバムが、他ならぬ<現在(いま)>的なアルバムに思えます。