この静かな朝に

 秋の日の朝、時折独特な感覚に見舞われます。静けさ。急にいつも通い馴れた道がこんなにも生き物の気配の感じられない寂しい道だったか知らん、と感じられ、すべての朝から隔絶して、この朝がわたしひとりだけの朝、森の中で木立が急に途絶えて聖堂の天井のように空が円く見える空き地にいるような感覚。昨日までのわたしは死に、踊り場で次の生に向かう前に呼び出されるのを待っているような。あの空はどこにも続いておらずこの道も視界から外れれば消えうせてしまうすべてが今朝生まれそしてどこにも向かわない朝。

 ふともうすぐ遠い空に旅たつ友人のことが思われ、かれの身になった気でいるのかと思いつきます。かれもまた、このような感覚を抱く朝があるのだろうか。

 9月11日の朝。わたしたちはこの朝の意味を忘れないでしょう。8月5日や8月9日や8月15日と同じように。でも、どうして?アメリカ合衆国とはアフリカで中東で中南米で何百万というひとびとにとって死神となった名前であり、これからもその更に何倍もの子どもたちの死を予約しているというのに?

 おそらく余りにも大きな墓標が、記念碑がなければ、ひとは日々の悲しみを留めておくことのできない生き物なのでしょう。刻一刻砂のように流れ落ちていく命をカウントすることは、指を鳴らすのと同じくらい容易なことなのです。

 時間のない墓標に立って、かれらはなにを想うのでしょうか。砂が指の間から零れ落ちていくその早さ。それは静止した空間からはもっとはっきりと認識され得るはずです。