We're All Fadin' Away

 BS1で放送していたアメリカ合衆国国境、アリゾナ州における、メキシコからの越境者問題に関するドキュメンタリーを観た。

 人道的見地から、越境者たちを支援しようとするひとびと。自らの生活を護るために、不法入国者たちを排除しようとするひとびと。いつの時代も、人心誘導の手法は変わらない。体制は、体制の維持のっために一番痛めつけられている一方のひとびとの不満をもう一方に誘導することによって、逆に前者を体制の最大の支持基盤としようとする。ホロコースト、エタ・ヒニン、夷を以て夷を制す、カースト、神話の時代から何ら変わることのない手法だ。にっちいもさっちもいかない現実を目の前にしたとき、多くの人は根源的な関連から目を背ける。そこに肌の色、旗の色、国の名目上の政治体制、共産だろうが資本主義だろうが関係ない。ただひとつ、大きな生命の連環から眼を背けたとき、そこに民族主義、民族の生存圏の発想が根を下ろす。それは民族浄化へと育ちうる危険な種子だ。国家はそれを操作しうると高を括っているが、果たしてそうか?

 わたしたちは、自らを滅ぼす狼たちを養い育てるために生きているのだと考える。<アメリカ人>となった英国系のひとびとは、ドイツ系やユダヤ系に、ドイツ系やユダヤ系はアイリッシュ、イタリア系、中国系、黒人、東欧系に、そして彼らは今メキシカン、イスラム系を受け入れ、アメリカ人としての力を与えることでその確立した利権を脅かされるようになった。それは自然な潮流だ。国とは血筋や肌の色ではない。そこにある理念、原理なのだ。生命の活力を保つために、王は自ら育てた来訪者たちにその座を追われなければならない。地上の支配者は交代する。アメリカにおける問題とはいまだ二世代前の支配者がその座を去りがたく、次の生命にその錫杖を明け渡すことを逡巡しているために、血の流れが凝りつつあることだ。

 これは日本という国に無関係な物語ではない。わたしたちは去り行く。最早黒い眼、黒い髪、きれいな大和言葉を話す人々の輝かしき日々は去り戻らない。次の朝日を見るのは、異なる言葉を話し、雑多な肌の色、眼の色、異なる土地からやってきたひとびとの血を継けた子供たちでなければならない。悲しむ必要はない。我々がこの土地で受け継いできた血と記憶は、必ずや彼らの中に混ざり合って残るだろう。

 わたしたちはみな薄れ、消え行く。だが、それを完全なる静的な死ではなく、再生とし得るのが我々の伝え得る理念、文化なのだ。我々は皆去り行く。だが、その高潔な精神は残る。むしろ愚図愚図と玉座に恋々とし続けることこそが確実な死を引き寄せる行為だということを我々は忘れてはならない。いかに次の支配者たちに美しいものを残しうるか。そのために我々は自らの生に専心する。