国民投票



 憲法改正の手続きを定める国民投票法が14日昼の参院本会議で、自民、公明両党などの賛成で可決、成立した。民主党などの野党は反対した。

 1947年の憲法施行から60年を経て、改憲に必要な法的環境が整う。安倍首相は任期中の改正を目指す考えを示しており、国会でも改正をめぐる議論が活発化しそうだ。

 成立する国民投票法は、与党が提出した案だ。国民投票の対象を憲法改正に限定し、賛成票が有効投票総数の過半数を占めた場合に改憲案を承認する内容となっている。公布から3年後に施行される。

 投票権年齢は、原則18歳以上だが、公職選挙法などの関連法が改正されるまでは20歳以上とする。公務員や教育者が地位を不当に利用して投票運動をすることを禁じているが、罰則は設けていない。

 参院憲法調査特別委員会では法案可決に際し、法施行までに最低投票率の是非を検討することなど18項目の付帯決議を採択した。

 同法の成立を受け、夏の参院選後に予定される臨時国会で、衆参各院に憲法審査会が設置され、改正をめぐる議論が始まる。ただ、同法は、施行までは憲法改正原案を提出したり、審査したりすることはできないと定めている。

 憲法は96条に改正条項を設け、国会の憲法改正発議には、衆参両院でそれぞれ、総議員の3分の2以上の賛成が必要であることなどを規定している。国民投票法は、この条項に肉付けし、改正の手順や要件を具体的に定めるものだ。

 与党と民主党は昨年5月、それぞれ独自案を衆院に提出した。その後、共同修正を模索したが、国民投票の対象などで接点を見いだせず、与党は今年3月、単独で修正案を衆院に提出した。民主党は国会審議で最低投票率制度を盛り込むよう求めたが、与党は「投票ボイコット運動を誘発する」として応じなかった。

 首相は改憲を今夏の参院選の争点とする考えを示しており、自民党は今後、全国各地で憲法集会を開くなどし、2005年にまとめた新憲法草案に沿った改正を主張していく構えだ。公明党は改正自体には前向きだが、自民党の目指す9条の改正には否定的だ。

 一方、民主党では、小沢代表は改正に慎重な姿勢を示しているが、党内には積極論も少なくない。共産、社民両党は憲法改正に一貫して反対している。

 与党は現在、衆院では3分の2以上の議席を確保しているが、参院では半数をわずかに上回る議席数だ。改正には、民主党の協力を得ることが不可欠になる。

(2007年5月14日11時58分 読売新聞)



人間というのは、基本的にどんなひとであっても、判断基準は手前勝手で、即物、即時的、言動不一致、首尾一貫していない。長い眼で見た判断が出来ないので、自らの生存を脅かしうる行動も自分を守るものと信じて平気で取ることができる。

それはどこの国が、とか、民度が、とかいう問題ではなく、人間が動物である証であり、超人になって克服することなど不可能だ。それが生物としてのかわいげであり、愛おしさでもある。100年先、1000年先までを見据えた行動を確信的に取ることができる人間など、機械と同じだ。

絶対的かつ厳格な硬性憲法を持ったからこそ、極端な言論統制や法的規制を受けずとも、日本は比較的安定した秩序を保ってきたのである。各々時々の都合や主観に左右されず、拘束する不都合な足枷こそが、法治国家における絶対的な規範であり、ドグマである。完璧でもなく、不都合がないわけではない。だが、その時々、個々の都合で国の根本原理が気儘につくりかえられていたらそれは名目はどうであれ、独裁国家とほとんどイコールである。立憲制民主国家にとって、憲法こそが国体そのものであり、憲法を壊すということは、国が亡びるのと同義である。憲法を批判することは自由、変えたいと思うのも自由だが、それにはまず、これまでの日本を根底から変える、新国家を建てる、という覚悟が必要だ。ひとつのシステムを破壊することはある場合にはごく容易だが、それに匹敵する完成度を持った別のシステムをつくりあげることが如何に困難か、歴史が生まれて以来、世界に生起した安定したシステムの少なさ、それが崩壊した後の混乱の深さを見ればわかろうというものだ。

われわれにその覚悟があるか?憲法立案者にその気概は充分に備わっているか?天皇、という国家の内包する自己矛盾に惑わされ、まるで君主親政の国家モデルの中で、憲法以外に国柱が存在しうると思い込んでいるとしか見えない。天皇神政、結構なシステムだった。だが、今更、それに立ち戻れるか?そのことを理解できれば、左翼だの右翼だの関係なく、天皇制というものの持つ心理的弊害、本当に正すべきがどこにあるかは一目瞭然のはずだ。

これまでの場当たり主義、大衆迎合主義が許されてきたのは、大きな拠り所があったからである。それがなくなれば、否が応でも、プーチン型、フセイン型の統制社会、監視社会を作り上げなければならなくなる。日本にそのような大物がいるか?憲法の庇護に慣れ切った国に、プーチンレヴェルの人材が眠っているとはとても考えられない。大の大人がそのような視点もなく、<憲法改正論>をぶつのは、マスコミ軽チャー社会の弊害、遂に脳天にまで達したか、と思わざるを得ない。人間の自滅本能の発現をありありと見せ付けられる思いだ。

いつの時代にあっても、己の世代が過去よりも優れたものを生み出せる、優越しているという考えは高慢、思い上がりに過ぎない。近代以降、文明は直線的思考に偏重しすぎ、己は昨日より成長できるという個の尺度を社会に無理に当てはめることに疑問を覚えずに済む鈍感さを身に付けた。それが許されないこととはいわないが、限界を知ってこそだ。限りない自我の肥大膨満は病に他ならない。