サディストは病気か?

サディススティックな心的傾向。これは現在まだ公式に<病気>とは認定されていないと思いますが、相当に残虐性が強い場合など、関わる人間には危険性を及ぼし得るものです。

萩尾望都の作品『残酷な神が支配する』では、義父グレッグのサディスティックな性的虐待により、養子ジェルミは明らかな精神の失調、病に陥ります。

しかし、グレッグ自身は、作品中でも「あいつは病気」などと度々言及されますが、僕の読んでいる感じでは、病気とは云い切れないように思えました。「危険すぎる人間だけど、それは病気だからなのか?」という。その感覚が、僕自身の偏ったものなのか、それともきちんと説明し得るものなのか、ということがずっと引っかかっていました。


医者が増えた病気の数も増えた、というような言葉を聞いたことがある気がしますが、そこまで皮肉かつ皮相な見方をしなくても、どんな状態をどの程度まで病気と認定するか、というのは非常に大きな問題だと最近よく考えます。それは、<病気>には、強制隔離、強制収容などという、<患者>の社会的権利をすり抜ける機能を認定側にもたらし得る側面があるからです。

そもそも、原因の判る身体的な疾患は、外傷、中毒、欠乏症、感染症、悪性腫瘍、アレルギー(異常過敏症)、動脈硬化症、(+自己免疫疾患?)に分けられるようですが、そうしたもの以外の原因、治療法が未解明なものでも、生死に関わる疾患、詰り難病、そういったものは余り判断が難しくない。どの程度の症状なら収容、処置しなければならないかということが大体分かっているのだから。

問題はやはり精神の病だと思います。今は様々な種類の心の病が定義されていますが、これまで看過されがちだった種の苦しみを抱える人々にとっては恩恵であると同時に、両刃の刃的側面もあるように思えます。病の認定は社会的には、受容と同時に排除のプロセスでもあるのではないか。

病には社会的に危険と看做される段階があります。身体的なものであれば、感染症、あるいは病の進行による認知能力の低下。これにより患者の行動は制限、束縛され得ます。現代は一般的に自らが病気であることを受け入れることによる快方の可能性のメリットの方が大きいため、結構意識されなくなっていると思いますが、本来、社会的には病は忌避、畏れの対象としての側面が大きいのですから、病であることの社会的認識の根本はそちらであると考えた方がいいように思います。

精神の病の場合も、当然社会的に危険と看做されれば束縛、コミュニティ的にいえば排除に動く裏付けとなり得る。

しかし、社会的に危険性のある心的傾向(敢えて病とは呼びません)の持ち主を、身体的疾患と同様に排除の対象とすることが果たして正当なのでしょうか。

僕はそういった意味で、精神的な<病>を身体的な病と同列に扱うことに疑問を感じます。

冒頭に挙げたグレッグは、サディスティックな心的傾向の持ち主の社会的危険性を証明し、排除を正当化する例のように見えますが、既に述べたように僕の感覚では、グレッグという人間自身は<病気>には見えない。グレッグという人間を見ると、少なくとも彼という人格を保つ上では、彼は破綻しない程度の狡猾さを持ち、またそれは自らの行いを明らかな犯罪として明るみに出さないだけのものでもある。

そして、これが最も重要だと思うのですが、<サディスト>はなべて、グレッグのような相手への卑劣さは別としても、行為としては、彼と同傾向のことを行っていると考えるからです。

グレッグは犯罪者ではあっても、病気ではない。そう考えなければ、大きな罠に陥ることになるように思えます。

病気として一般化することは、グレッグ未満の人間をも排除する理由づけにもなってしまう。それは明らかにおかしいのではないでしょうか。<サディスト>は暴力を用います。しかし、程度の問題で、大半は相手にも受け入れられる範囲でそれを行っている。それゆえに<サディスト>が社会に生息し得る。皆が皆歯止めの利かない<病気>であるのなら、そもそもサディストは社会的に存在し得ない。

勿論『残酷な神が支配する』の作品中に描かれているように、犯罪にまで発展した状態が隠蔽されている例が存在する可能性を否定はしません。しかしそれは犯罪対策上の問題であって、疾病対策上の問題ではないのです。

長々書きましたが結局、程度の問題である、ということ。そのコンセンサスが今必要なのではないか。サディストを例として上げましたが、あの石原とかアグネス、ああいう輩の言説がまともに取り上げられるのはそもそもおかしい、ということです。そもそも犯罪に発展し得る可能性を持っていたとしても、それを犯罪に発展する以前に取り締まるということはすべての事例に適用することができない以上正当な犯罪防止手段とはなりません。また、ああいった輩は気に食わない傾向の人間を異常者、病気と考えているようですが、述べてきたように<偏った心的傾向>はそれだけでは病気と認定し得るものではない(むしろしてはならない)のです。

明らかに誤った言説、頓珍漢な決め付けがまかり通る社会。それをおかしいと思う人の少なさ(何で東京都民は石原を再選させたのか。未だに失望しています)。社会というものはそれを構成するために必要な種々の定義付けとその周知、そして承認があって初めて成り立つものでしょう。根本的に成り立たない定義がまともに周知されず、承認されたともいえない状態で流通するようではまだまだまともな社会には程遠い。