カラスの媚態

カラスは頭のいい動物なのだという。

ある時、男は川の葦原への階段を駆け降りていく仔猫のきょうだいを見かけた。彼がそれを追って階段を降りかけると、一匹は踵を返して川べりの小高い丘の上に逃げて行き、こちらを窺っている。もう一匹は気づかぬ様子で葦原をあちこち探って周っている。

彼はもうニ、三段階段を降りると、ポケットにあった包を出して、そこに置いた。葦原にいた一匹も、その時彼に気づいてぱっと駆け上がっていった。彼は後ろを振り返りながら去っていった。猫はすぐには戻ってこなかったが、きっと丘の上から窺っているだろうと思った。丘の高い木の上からカラスがすべてを見ていたことには気づかないままだった。

翌日、男はまたその場所に戻ってみた。残した包みが気になっていた。葦原へと階段を降りていくと、カラスが背後の欄干にとまってカァッカァッと、鋭く短く、続けて鳴き続けた。包みはあとかたもなくなくなっていた。仔猫たちの姿は見えなかった。

彼は期待外れに淋しさを覚えながら戻りかけた。さっきのカラスがあの高い木の枝に飛んでいって、カァッカァッっと鋭く二回鳴いて、ぽとりと何かを男の足元に落とした。あの包みだった。中身はきれいになくなっていた。カラスは男が包みを見たのを確かめると、また鋭く鳴いた。お前のポケットに同じ包みがまだ入っているのを知っているぞ、というように。

男は激しい厭悪が沸き上がるのを抑えかねながら、カラスに背を向けて足早に歩き始めた。あの丘の向こう側の斜面にあの仔猫たちの死体が転がっていてもおかしくないぞ。男はそんな想像をする自らに戦慄した。

あれはカラスにとっては、思い掛けないお土産をくれた人間に見せる媚態ではないか。姿かたちは違えど、猫たちの人への懐きようと変わるところはないのではないか?それを厭らしいものと感じる己(おれ)は何だ。

しかし、わざわざ包みを落として男に思い出させようとしてみせるカラスの行動には、その端々にどうしても小ずるさを感じとらざるを得なかった。猫もお気に入りのおもちゃをわざと家人の目の前まで咥えて来て落として見せて、遊んでくれと促すことがある。カラスの行動はその甘えように似ていたが、カラスの甘えには一端それを許せば、すぐにエスカレートして、平気で「己(おれ)の要求に応えないのならお前の愛するものがこんな目に遭うことも覚悟するがいい」と、つつき殺した仔猫の頭をぽとりと男の前に落として見せ兼ねないような、酷薄さ、サイコじみた利己性が感じられるのだ。

詰りそれは、ヒトがヒトに覚える不気味さ、厭らしさに限りなく近い。

それは、偏見の正当化だろうか?男にはそれを言い切る勇気はなかったが、カラスの丸い額、親しげな目つきを忘れることは出来なかった。