ジョージィポージィプディングパイ

 最近、記憶の悪戯ということについてよく考える。

 何とはなしに、僕には起こりえないことのように思っていたのだが、完全に思い出せないことがある。これは小学のときにあんたが作ったアクセサリーだよ、と母に差し出された赤水晶のペンダント、まったく見た覚えがない。俺がつくったにしては細工にえらく手が込んでいるように思える。

 俺は工作の類が苦手で、一度として思うようにつくれた験しがないので、余計そういったことはよく覚えていると思っていた。と、いうよりも幼い頃から何かを学ぶということが俺にとっては苦痛に満ち満ちていて、何かをすっと簡単に、上手に出来た記憶がないのだ。ミラン・クンデラの小説『無知』で、人間とは自分のいい面は覚えておらず、コンプレックスのみを記憶している、というようなことが書かれていたが、俺にはコンプレックスなしになにかをし遂げたという覚えがない。常に自意識過剰で、自分のことばかり気にして生きてきたので、まさかそんなにあっさりと忘れられる過去、しかもかなり苦労して作ったであろうアクセサリー(針金を捻って赤水晶の周りに巻いただけのものだが)を、目の前にしてすら記憶が蘇らないということは、まるで信じられない、ショックだった。

 決して忘れられない、許せないという記憶がある一方で、俺の中では幼稚園なんかで唄った童歌などの節回しがすっぽり抜け落ちている。幸せな記憶というのは、より大きな物語、他人が語る幸福な子供時代の風景に同化してしまい、幸せな光景を思うとき、そのシーンがどうしても俺自身の経験とは思えない。ただ、個人的なものは恨みつらみ、口悔しみだけが残るとすれば、一体幸福な時間とは何なのか。

 歴史の中にはきっと、希望もあり、燃え立つような情熱もあったのだと思う。だが、老いがそれらすべてを流し去り、苦いもの、苦しみしか残さないとすれば、積み重ねることができるものはすべてまやかしと苦痛だけだということになる。

 ひとの記憶とはどうして喜びをかくも簡単に押し流してしまうのか。