あんたにNoといってやるぜ俺は

 石原慎太郎の説に従えば人間ははてしなく堕落して行っている(彼の言葉によると脳幹が弱くなっていっている)ことになりますね。

 テレビでやってたビートたけしの品格論ちゅうような番組を最後の方だけ見ました。

 久米宏石原慎太郎が出てきて、ビートたけし爆笑問題の太田(相方には意見らしきものはないようなので除外。席にはいましたけど)と日本人の品格云々で議論。久米宏の肩を持つわけではないけれど、言葉を慎重に選びながら話す姿が印象的だった。ビートたけしはその前の速星中学校の無人購買に関する映像が流れた後でいきなり「気持ち悪いね」と切り捨てたのにはおっ、と思いましたが(50円多くお金が入ってるだけで犯人探し、全校アンケート、果ては担当の生徒が泣きながら「売った金額過不足なしの記録がまたゼロからスタートです」とか校内放送流すんですぜ。生徒に持たせる善悪の意識の次元が間違ってると思う。)、久米宏が出てくるや言葉少なになって「外国と日本のテレビの品格の違い」とかの話題に乗ってくるくらい。あんたその辺の素人ですか、と思っちゃいます。逆に太田さんは、すごくまともに石原慎太郎の発言のおかしなところに噛み付いていってて、少なくとも真摯に生きようとしてる人だな、と認識を新たにしました。ちょっとマジ過ぎてこの先テレビの世界でちゃんと生き残っていけるのか最近妙に心配ですがw。

 で、石原慎太郎ですが、なんでこのひとがこんな偉そうにしてられるのかわからない。いうことといえば相変わらず「平和になって緊張感がなくなり、日本人は一体感もなく、脳幹が鍛えられないので精神が弱くなった」という科学的根拠があるかに見せかけた古い精神論。あんたそれで政治家、それ以前に作家ですかといいたくなります。

 はっきりとした戦争という意味では江戸期の方がずっと長いことなかったわけです。このひとの想定する理想の日本人は遡っても日清戦争からみたいですから、それまで250年以上、日本人の脳幹は緩みっぱなしだったっちゅうことですか。

 大体どっかから引っ張ってきた変な<科学的根拠>でもって手前味噌な精神論を権威付けして反論を一切封じ込めようという手法、これほど卑怯なものはないと思うし、大体実は全く筋が通っていない。個人の行動データを集成した脳科学的データをそのまま全体に転化して用いることはできないし、大体データはデータでしかなく、そこに意味づけをすることは結局は主観の作業です。「今の日本人は脳幹が未発達」、「今の日本人は忍耐がない」、「今の子供は簡単に自殺する」という石原慎太郎が確実に結びつく原因と結果のように思い込んでいる論理は、実はデータ的には結びついていない。ただ単に主観でつなぎ合わせただけで、ちっとも高度な理論には消化されていません。

 今も昔も日本の問題は<責任>というものの所在が明らかでないことだと僕は思う。それは大昔からそうです。国の守るべき規範、建前が履行されたことなどなく、何か失敗があれば現場に近い人間から順に腹を詰めていくだけで、最高責任者までは決して咎められることがない。その結果、真剣な検討、改善の努力が失敗した事項に対して行われることもなく(それはこれ以上は考えてはならない、ある限定した条件でだけ考えなさいよ、という不文律、思考の壁があるからです)、われわれがひとりの神格化された人間よりも、まず何を護り、社会の理想としていかなければならないのかということが真剣に問われたこともない。社会の血も浄化されることのないままずるずると曖昧なものを引きずっている。

 そんな曖昧さには個人的には好もしい面もありますが、国の規範、法を畏れず、ただ怖れるだけの精神性、なによりもまず、大きな建前、理想を誇れないことは社会としては誇り以前の問題だと思います。日本人の持つべき美しい誇りとは、桜だとか国旗だとか国歌とか美しい日本語(まあ美しい日本とか盛んに述べ立てている人間の言葉が大体<美しい日本語>とは思えませんが)とか軍隊じゃなくて、現時点ではあらゆる面で平和を維持する誇り、美しい平和憲法を実現しつつあるとの誇りじゃないですか(残念ながらいまだ一度も日本がその理想に寄与した時期はありませんが)?その意味では、日本人が誇る恥の意識とは飽くまでも内向き、内輪に向いた<爪弾きの恐怖>から来ているもので、決して崇高な理念に面と向かったときの畏敬、畏れの意識から来ているものではない。そんなものを誇るべきでしょうか?

 誇りとは、自らのやっていることを貶めず、他者が確信を持って行おうとしていることも尊重し、卑しまないことです。文化の優劣、文明の優劣などを勝手に独り決めして慢心することは自らへの誤魔化しに過ぎません。自らが明らかに意図的に滲ませた偏見を取り繕うために、わざわざ「三国人」という言葉の語源まで遡ってみせて(当然ながら語源とその後慣用化、付与された意味合いは全くイコールとはいえません)自らの意図さえ誤魔化し、はっきりとさせることからすら逃げる石原慎太郎に誇りがあるとも思えません(2000年の石原慎太郎によるこの発言の全文がこちらのサイト様に掲載されていました。この無責任な発言によってその後どのような影響がありましたか?石原慎太郎に心情的に共鳴するひとびとは急に「(第)三国人」という言葉を我先に用い始め、批判する側は石原慎太郎が自らの意図をはっきりと認めないために的外れな指摘に終始せざるを得ず、結局なし崩しにこの発言が社会に一定の理解を得たかのような印象を残した。

 石原慎太郎のいわんとするところはこんな単語をつつかなくても至るところにはっきりと述べられていますよ。例えば

「今日(こんにち)の日本を眺めますと、残念ながらどうも国の外側も内側もタガが緩んできたなという感じを歪めません。図体の大きな経済国家でありますけども、この日本の姿、社会に起こっている 出来事を眺めますと、何か肝心なものが欠けてしまっているなという感じが歪めません。私達のうちに、自分達が属する伝統のある、 力のあるこの日本という国家社会に対する意識が、どれほどあるかなという疑念がわいてまいります。」

といったかと思えば

「彼ら白人にとってみると、日本人だけが有色人種の中で唯一見事な近代国家を作ったということそのものが、意に沿わない事実だったのでありましょう。ゆえに、このへんを非常に危険視したアメリカは、あのいびつな憲法に象徴されるようにこの日本の解体を図って、残念ながらその結果が今日(こんにち)露呈されていることをだれも否めないと思います。」

 どういう妄想かと思います。一体何を持ち上げて、何を貶めたいのか。混乱してます。

 「伝統のある日本」とは確実に「見事な近代国家」とはイコールにはなりえませんね。「見事な近代国家」日本を称えるなら、明治維新を機に、日本という国は全く新しく建て直された、との説を採らなければなりません。

 「伝統ある日本」を強調したいのなら、日本はアジアの他の地域から多くのものを得てその伝統を作り上げてきたのですから、アジアの国々に敬意を持ってしかるべきです。しかも「日本人だけが有色人種の中で唯一見事な近代国家を作った」ってことは、どうもアジア人だけでなく、黒人、アラブ系なんかも含むらしい。第二次世界大戦までのアジアは百歩譲ってその通りだとしましょう(地域的、歴史的事情をっ考えれば、日本が仮にいち早く西欧化していたと定義したとしても、別に日本人の優秀性を証明することにはならないと思いますがね)。でも、トルコはどうですか?ウルグアイは?それとも見事な近代国家とは石原さんの定義では清に軍隊を送り込んだ国だけのことを指すんですか?

 何より、この人の発言の脈絡はヒトラーの演説とそっくりですね。自国民の優秀性を謳い、自国の苦難の原因を他国に転嫁する。国内の秩序破壊、経済的混乱もすべて他国からやってきた人間が元凶、戦争に負けたのも他国が自国民の優秀性を嫉んだからだ。優秀なる日本人にはもともとは何の責任もありません・・・・・・。聴いて欲しい相手の気分が良くなることだけいってればいいんですからね。こんな人が硬骨漢と位置づけられている状況もどうかと思いますよ。少なくとも作家としては失格でしょう、おべんちゃらしか言えないのでは。

 人間の精神には現実を理で割り切れないもやもやとした部分があって、知らず知らずの中に我々は心の底に割り切れない憎悪の澱を凝らせながら生きています。そんな感情を表に出さないのはそれが我々の社会が存立するための建前と反することを知っているからです。我々は時に非常に卑劣なことを考えますが、それは実現してはならない悪夢ですし、健康な社会にあっては一個人の力では実現することなどできないようになっているものです。ですが、どん詰まりのようなときにあっては、その悪夢の実現を引き受けようとする人間が現れればその人間を善悪の境界を超えたカリスマのように感じ、自制心、判断の義務を投げ出して委ねたくなる衝動が強くもなります。そんな<ヒトラーの尻尾>候補はいつでも世の中に溢れています。普段は偏執的と嘲笑われていても、何かのきっかけでその妄想に世の中の歯車が噛み合ってしまったら・・・・・・。あの飛行機がビルに突っ込む前までは、ブッシュジュニアもただの気弱げで少し教養に欠けたお坊ちゃま程度のイメージしかなかった。もし小説のように北朝鮮福岡ドーム自爆テロ要員でも送り込もうものなら・・・・・・・。一体何人の<ヒトラーの尻尾>候補が名乗りを上げてくるか見当もつきません。

 しかし、この人の思想(こんな継ぎ接ぎだらけの首尾一貫しないのは本当は思想とはいいませんが)は、戦中戦後第一世代の多くが持つ白人コンプレックスから来る同族嫌悪(黄色人種差別)意識に根ざしたもの、と説明されてきたものの典型です。というかこの人自身が俺の屈託はこういうことですよ、と宣伝、自己開示しながら歩いている。こんな下らない屈託に縛られている人を知事として選び続けることこそを、東京都民の方々は恥じていただきたいと思うのです。