日本語は難しい

前にも同じことを書いたような気がするが、英語だと、実は主語だけで述語がなくても何かを述べることができる、別の言い方では、くどくど述べてきたことへの結論をつけなくてもいい。

これに気づいたのは最近なのだが、日本語では、文章を書く場合、体言止めを使うことは難しい。だが、体言止めを使うことができれば、用言は先に来るためにその重さを減じることもできる。

つまり、「俺はバス停に行く」といえば、ここでは何も語られていない「なんのために」ということを説明する言葉への期待が生まれる。つまり、それだけでは何も意味のあることを語っていないと見做しうる。だが、「俺は行く、バス停に」といえば、それだけで更に付け加える必要はない、ともいえる。聞き手、読み手の方で目的、心情を推察する自由が生じるといってもいい。

更に、'I Wanna Go'とだけいえば、その後に来る目的地は限定する必要はない。海だって、都会だって、農場だっていいわけである。日本語では「俺は都会に行きたい」と行き先が前もって限定されてしまう。

日本語の論理では、すでにある見解に自らの行動を帰結させる必要がある。自分の行動の意味を説明しなければならないということだ。だが、本来自分がなぜこんなことをしているかなど、すぐには自分の中でさえ、意味づけることなどできない。なぜ彼女を口説かなければならないのか。そんなことの意味を前もって知っているひとがいるのだろうか。

強制的な意味づけの必要性のために、日本語には本来パーソナルな感情表現が「嬉しい」「悲しい」「怖い」「怒った」「気持ちいい」などの過度に記号化された言葉で表される。だが、喜怒哀楽恐怖という感情は実は本来存在せず、精神が抱える内容はもっと混沌として境界のはっきりしないものである。英語の日常表現において、感情表現はもっと感覚的であり、'much better'、'not too but'など、その具合をより簡便により実感に近く表現可能である。

日本語は日常的に感覚をことばで表す訓練がしにくい。それが、芸術的言語と日常的言語に境界を設けているのだろう。



そういえば、下世話な話で申し訳ないのだが、日本語でも感覚的な表現が多用される状況がある。その場合、少なくとも文章であらわすときは「いく」とか「達する」とか、「終わる」とかが一般的なようだが、これに対して英語では'comin''というのが一般的らしい。'finish'とかもいうようだが。日本語はどこかからどこかに行く、到達する、入るという感覚であるのに対し、英語ではやってくる、どこかから降ってくる、という感じなのは面白い。日本の表現は元々仏教的な悟りの観念を流用しているのかもしれないし、英語は「霊感が下りてくる」というようなイメージが浮かぶ。来る、と感じるのと、いく、と感じるのとでは、まったく別種の感覚のような感じもするが、そう口にすることで感じ方まで変わってくるものだろうか。