しかたがない

阿川弘之の『山本五十六』を読んでいる。

まあ、現在では常識的な見解なのかもしれないが、おそらく、戦中にあった極端に偏った軍神的イメージを修正する狙いがあってか、山本五十六や彼に近い筋の日本海軍上層部が日独伊三国協定や日米開戦に終始否定的態度であったことを強調した書き方になっている。一方で、陸軍への評価は非常に厳しい。阿川弘之が戦時中海軍所属であることを考えれば正直なところなのだろうが。

だが、あえて揚げ足をとるような見方をすれば、陸軍の方針が国民に支持され、山本五十六が結局のところ日米開戦の火蓋を切る立役者になった理由も見えてくる。

この本の中にも山本五十六がギャンブルの名手だったとか、芸伎に人気があったとか度々<武勇伝>が出てくるが、昔のいい方をすれば豪傑風の好人物の印象を受ける一方、意地の悪い見方をすれば、それらの遊興費もすべて日清日露戦争以降、毎年3-4割、国家予算の最大9割が投じられたという軍事予算から出ているもので、ただでさえ金食い虫の海軍、金を出している国民からしてみれば、単純に人間味あるエピソードと割り切れただろうか。山本五十六は結婚相手を決めるときなど、ことあるごとに自分が将来の保証もない軍人である(元帥でもなければ退役後潤沢な恩給が支給されるということもなかった)ということを意識していたらしいが、一方では海外赴任時にはモナコの賭博場で出入り禁止になるような<活躍>もしているのである。海軍の軍人たちは、当然、軍艦や戦闘機が国民の<血と汗と涙の結晶>であったことを意識し、一有事あれば進んで命を捨てなければならないという覚悟を持っていたようだが、結局それは天文学的な増強を行った艦隊をもって、死んで見せることでしか自らの職業的使命を証明できないところまでいっていたということでもあろう。そのややスノップな高踏的で都市的、スマートな姿勢は知識層にアピールしたかもしれないが、単純にシンパシーばかりを集めていたわけではあるまい。大体、この本でもいわれるように、海軍は陸軍の強硬な姿勢に批判的であっても、具体的な対抗策を打つことはなく、上層部が破滅を予測していたといっても畢竟時局の流れを積極的に変えることはなかったのである。それどころか、 山本ら<良識派>にしても、海軍内部の強硬派や陸軍の要求する三国同盟や戦時立法を渋々とはいいながら結局のところ受け入れているのだ。内心反対、といっても大きな意味は感じられない。

対して<悪玉>の陸軍は、2.26事件の際、叛乱将校たちが発した声明に見られるように、農村出身者も多く、故郷の貧窮を嘆きこれを解決したいという世を憂える立場を取っており、実は現在の私たちであればこそ実はその当時の人気の源泉もよく理解できるというものであろう。精神論で最新兵器の導入に否定的であったのというのも、<庶民感情>を主としてみれば当然の姿である。肉弾三勇士だのフィジカルに訴える<美談>、講談調で英米海軍に対して4割だ、いや3割で充分だ、と揉めている海軍に比べればすっとわかりやすい。

海軍は武士の流れを継ぐ職業軍人の気風が強く、陸軍は実はコミュニスト的な国民軍であった、と対比できるだろう。そうしてみると、当時の日本は、一部の軍部の暴走ではなく、国民一体となった強力な全体主義国家であったことは否めないと思う。

これを引き合いにして、だから現在の事大主義のマスコミ大衆は駄目で、自民党、小泉安部の<改革>は正しい、などというつもりは毛頭ない。むしろ問題は当時に固有の問題であり、軍事立国という日本のあり方の異常性に学ぶべきところがあると思う。

いくら海軍が、山本五十六がリアリストで、太平洋戦争の愚かさを認識していたとしても、そもそも兵とはまがごと、極力用いないのがいいとはいえ結局は戦争がその目的なのである。しかも江戸時代、槍弓刀の時代なら100年200年それを揮う機会がないことで充分に抑止力として<武士>の存在意義があっただろうが、国の9割もの歳入を投じた装備となればそうもいかない。当初は使われないことが一番、抑止力たることを理想とした兵器も、使って見せなければ出資者=国民を納得させることはできない。そして海軍とはいえ、戦をレゾンデートルとする軍人は、戦争を否定してみせることなどできず、そこに思考の壁、<とりあえず・仕方がない>の呪縛が生ずる。つまり、海軍に戦争の激化を押し留めることができなかったことなど当然であり、その点では本質的にテクノクラートであるかれらは陸軍と同じ穴の狢、という以上に、よりはアマチュアなところのある陸軍よりも更に現代のわれわれが振り返って期待するような分別を期待することなど不可能な存在だったのである。

ここから、口幅ったいが、ふたつのことを現代に教訓として引き出せると思う。

現在の日本は<経済立国>であり、まさに海軍がそうであったように、経済は凶器である、といえる。経済を絶対化する限り、経済成長に反する施策は出しようがないし、ひとりひとりの内的幸福とは関係なく、経済的利益のみが最優先される。ここに金という化け物の怖さがある。

そして、世界でも3位(最新では2位)という軍事費を投じて維持拡充されてきた<自衛隊>。この軍隊にとって自らの存在を正式に承認されることを求め続けるのはその組織としての存在目的からして当然であり、それはそこに関わっている人間の個人的人格や考え方には関係がない。いい換えれば、軍隊自身が自らを認知されたがっている動機はそれだけなのである。ナイーヴに過ぎるネット右翼や政治家たちの思惑とは関係がない。それだけに、思惑を超えていきうる。

軍隊も経済も本来必要悪であったはずである。一部の人々が妄信するようなすべてのひとが共有しうる崇高な理想、理念に一致するものではない。それは往々にして用いる側の想像を超えて脅威となりうる手段、道具であり、職業なのである。

本来国とはなにか。そこに暮らすひとびとを食わせていく、それが指導者であり、国のかたちであったはずである。近代以降、手段を目的としてその奴隷に堕した国家に対して、俺は本来の意味での愛国心も何も抱きようがないと思っている。

全体の利益といい、国のためだ、仕方がない、許せ、と殺され、特攻させられ、経済復興のため仕方がない、と切り捨てられ、勝ち組負け組みが生じるのも仕方ない、と、実際は職業によってはどう逆立ちしても<勝ち組>になどなれないというからくり、それも我慢し、大多数の利益のため仕方ない、と近所に核廃棄物を埋められる。

だが、本当に全体のため、大多数のため、という大義名分が正しいのか。太平洋戦争はだれのためになったのか、経済復興は、と考えると、俺には<全体の利益>は個人の利益にさして優先するものとは思えない。成熟した国家、共同体とはせいぜい個の連帯、契約によってなりたつものであり、平時はすでにしてそうであるのが、なぜ切羽詰ると全体の幸福、全体の利益のお題目が持ち出されるのは不思議だ。

自分勝手結構、思考停止を誇る大義信奉者よりもよほど高尚な態度だと、俺は思う。