想像力とエロ

エロスと書くとあんまりエロく感じないのに、エロって書くとなんか卑猥。不思議!

作家はなぜエロいのか、ということを考えるとき、一番うまい説明を見つけました。それは想像力の限界、嘘が本当らしく伝わる限界を追い求めるからです。これはガルシア・マルケスの言葉からの借り物なのですが、作家というものの性をよくあらわしているように思えます。

虚構の世界とは、いい換えれば嘘の世界、ということです。作家とは、できるだけ嘘が少なくなるように、ではなく、どれだけの大嘘をひとが真に受けるようにつけるか、と考える生き物です。ピカソの抽象画を作品を思い起こしてみてください。何が何だかわからないが、それは決して何も考えずに適当に描いただけのものではありません。ちょっとした手がかりをみつければ、見るものはそこに内包された真実を読み取ろうと躍起にならざるを得ないでしょう。しかし、実際にはそれは現実の印画ではなく、あたかもそこにあったかのようにつくられた物語を読んでいるのに過ぎないのです。

虚構が虚構として成立するには、現実世界との接点が開かれていなければなりません。SF小説で異なる次元を描くとき、ただ異なる次元がある、ということを描くだけではそれは虚構として成立しません。必ず、んなに稀にしか起こりえないような偶然によってであろうと、登場人物に対して異次元への扉が開かれ、かれは肌でその次元の脅威を体験しなければなりません。これはすべての虚構の性質を如実にあらわしています。宇宙のはじまりを思い描こうとするとき、その視点はどこにありますか?無からの宇宙のはじまりに存在し得るまなざし、それが神です。神とは、われわれの眼、代弁者として、創世の脅威を見、聞き、語る器なのです。世界の創造という虚構の中で、どんなに工夫をこらし、驚異を用意したとしても、実際に歩き回り、驚異を体験し、その驚異を観衆にレポートしてくれる主体が存在しなければ骨折り損になってしまいます。作家とは、様々な驚嘆に満ちた遊園地の設計者に似ています。どんなにすごい娯楽施設があっても(そしてどんなに念入りに現実の中の異次元、虚構としてつくりあげたとしても)、そこに利用者がいなければ遊園地は遊園地として成立しないのです。虚構世界における登場人物とは、作家が工夫を凝らした趣向を最良の形で享受してくれる、お客さん第一号ということになります。往々にして虚構における登場人物が作家にとって制御不能な主体となるのも、この虚構における料理とそれを食べるものに似た関係に由来しています。作家が腕を振るうことができるのは食材を素晴らしい(可能性がある)料理として料理して器に盛り付けることだけで、登場人物がそれを思ったとおりに食べてくれるかどうかまではコントロールできません。本当においしくなければおいしい、とは語ってくれませんし、様々なその登場人物の事情によって、素直においしいといってくれなかったり、口をつけてすらくれない場合すら出てくるのです。

それでは、われわれがもっとも想像力を働かせやすい、他者の視点を要する、様々な可能性を試すことができる題材とは何でしょうか。それは性行為です。その他の行為や出来事の場合、作家はダイレクトに登場人物の反応を得ることが実は結構難しいのです。人物を動かし、仕事をさせることは現実世界同様、虚構世界においても難儀なことです。宇宙船が墜落した現場に登場人物を向かわせるには、かれを納得させうるだけの動機付けが得られなければなりません。行為が生じなければ物語は進みませんから、どんな些細な行動にもえらい難儀をして資料集めをし、勉強し、時間をかけて舞台を設定してやらなければ登場人物は納得しません。かれにとってはそこで生活し、生き死にを左右される場なのですから当然です。それで飯が食えるという実現性を信じさせなければ(それは大嘘なんですが)、ひとは動かないものなんです。

しかし性行為という場面においては、ある反応を得ることは容易です。それに対してどんな感情を抱くかはともかく、肉体へのダイレクトな刺激を与えれば何らかの動きは生じますし、動きが生じなくてもこいつは死んでます、という結果は導き出せます。そして、肉体的な芝居をつけやすい。環境の流転によって芝居をつけるよりも、肉体の反応、動きは往々にしてより面白みがあり、また即時的な芝居になります。

更に性行為は感情の坩堝です。日常、という場面で、登場人物の本音や稀有な反応を導き出すことは難しい。また、日常であんまり感情の波が大きい人物に対しては読み手が動きを追うのに疲れてしまう。読み手に虚構への扉を探すのを放棄させては台無しですから、むしろより注意深くならなければならない。

要するに、虚構という思考の実験としては非常に取り組みやすい上に、迫真性がある。嘘を虚構として成立させやすい。そして取り組みたいだけの登場人物の動きに通り一遍等でない面白みがある。

エロが最古にして最も流布したアートであるのには、これだけの題材としての強さがベースにあるのです。

僕はエロというのは、人形遊びに似ていると思いますね。誰でも一度は人形に対して、ただ置いておくだけでなく、服を着替えさせてみたり、裸に剥いてみたり、逆立ちさせてみたり、パンツを中身をみてみたり、それだけでなく、手足をちょん切ってみたり、晒し首にしたりということを、実際にやってみなくても想像くらいはしたことがあるはずです。その過程で、人形の感情を想像し、その痛みや羞恥や絶望を感じるわけです。それを単なる幼児性や残虐性、異常性で片付けられるでしょうか。そういいきれるのは偽善だと思いますね。ここでいうエロには当然肉体的行為の行き着く先としての残虐行為も含みます。僕は呂后の人豚(ダルマ)の逸話がひとの想像しうるエロの限界点、虚構の限界のかたちのひとつだと考えているのですが、人のすべての機能を生きたまま破壊するという行為に惹きつけられること自体を禁じることができるのか、ということです。そら実際やったらいけません。死にます。いや、死なんでも人生を潰します。そんなことはわかりきってますが、それが可能であるということ、ひとはどこまでなら機能を失って生き続けていられるのか、そのときかれはどんな感じがするのか、ということを想像するのは、世界創造を想像するのと同軸にある思弁です。まぁ綺麗ごとになってしまうのであんまこういう喩えは出したくないんですが、何事であろうと、どこに限界があるのか、どこまでが可能なのかということに興味を持たない、ということの方が不思議ですし、危ういのではないでしょうか。

昨今のエロに対する風潮を見るとき、どうもこういったことを考えずにはいられません。現実的ではないとは思いつつも、どうしてもその行き着く先、作家であるということがすべて変態と同義にされ、抹殺されるという図を想像してしまうのです。