少子化について考えてみた

ガルシア=マルケスがフォークナーからの影響を書いていたので、『四月の光』を買ってみた。が、どうも冒頭から水が合わない感じを受ける。映画の『欲望という名の電車』を観た時と似たような感覚だ。

それはどうも僕の感性がアメリカ南部のドロドロさを、受け付けないのではないかと思い当たった。僕の読んできた作家を振り返ると、ヘミングウェイであり、ガルシア=マルケススティーブン・キング筒井康隆夏目漱石であり、共通して、意識が中産階級的というか、どこか貴族趣味な感じがする。所謂プチブルw。土臭い世界を描こうとしても、どうも現実感、切迫感が伴わないのだ。感覚的なものなので、他の方には差がぴんとこないかもしれないが、江戸川乱歩は読めるが、横溝正史はどうも受け付けない、そういう差だ。

中世的な民衆意識と近代的な民衆意識の葛藤、というのが、フォークナーやヘミングウェイの時代から連綿と続く問題意識だと思う。作家とは常にエイリアン、被疎外者であり、土俗村落社会的なものに馴染めない違和感を滲ませる視点になるのがむしろ当たり前のようにも感じるのだが、<あっち寄り>というか、なまなかに共感させてくれない凄みを感じる作家がどうも中にいるのだ。


この意識の差、というものに起因している最大のものが、子供の意味合いではないか。前近代的な民衆社会においては、子供は<働き手>である。現在よりもずっと貧しいにもかかわらず、10人以上も子供がいてもそんなに珍しくないのは、子供が12歳にもなれば立派な労働力となる財産だからだ。しかし、近代社会においては、子供はなかなか手が離れず、また独立した後も核家族化して生家に利益を還元してくれることがない、負担でしかない。近代社会においては愛玩動物と子供の意味は近似している。どちらも物質的利益をもたらすものではなく、また経済的余裕がなければ持つことが難しいが、持つこと自体は必要性を持たず、負担の増加を意味するだけなので、どんなに余裕があろうともそれに比例して出生率が伸びるということはない。

少子化とは近代社会ではむしろ当たり前の現象なのだ。


このことひとつをとっても(というよりも、<家族>の意義というのは社会における中心的命題だろう)、前近代と近代以降というものはまったく立脚点が異なる。ふたつは貴族という非生産民的なものと生産民的なものというかたちで並立してきた概念であはあるが、決して相容れないのだ。僕には、労働力として子供を生産するようなあり方自体が恐ろしいという感覚があるから、前近代的なドロドロに目を背けたくなる。しかし、近代によって機能不全化された家族を国家やより大きなコミュニティに止揚しようとする試みは繰り返されてきたが、未だに前近代に負い目を感じるのは、近代以降というものへの確信の持てなさに起因しているのではないだろうか。少子化が必然なのにそれが続けば成り立たない社会というものが、果たして全うな社会構造なのか。<家族>に変わる子供の受け皿は果たして機能しているのか。近代が現代と呼ばれるようになり、未来社会に入りつつあっても、その根本的な問題点は未解決なままだ。