人は何故チートをするのか-サッカーブラジル代表に思う-

ルイス・ファビアーノの神の手発言や、カカの退場シーンを見ながら思ったこと・・・・。


よく最近の若いもんはごまかし(チート)ばっかり素直に自分の過ちを認めようとしない、的な論調を耳にしますし、僕自身も仕事とかで他人にそういうことをされれば(普段の自分は棚に上げて)そりゃ腹も立ちます。

ワシントンの桜の木みたいな、「チートするより正直にゴメンナサイした方が得よん」的道徳観をちっちゃい頃から教え込まれてきているワレワレにとって、そういうごまかしをすることは本人決して気分がいいことではないでしょう。やっぱたまに正直に過ちを認めたときの顔はえらい晴れ晴れして見えますし、そりゃよそから発覚するよりさっさとゴメンナサイしちゃえば組織側のみならずアヤマチを犯した側にとっても<その時点での>リスクは最小限の場合も多いでしょう。それはまぁ事実なわけです。

しかし、ワレワレはアヤマチを隠そうとする。もうこれは本能と呼んじゃってもいいんじゃないかと思います。道徳心がなければヒトは動物と変わらなくなってしまうなんていいますが、後天的な道徳観なんかより本能が強いのは当たり前とはいえ、ワレワレ全体の幸福の追求にとって良かれと思って考えられた道徳を、なぜいつまで経ってもアホな人類はきちんと実践しようとしないのか。

それは、道徳という観念が非常に大きな人間の一要素を(あえて)見落としているからではないでしょうか。

ワレワレ人類はミスをします。これは生存という行為が意図してしないに関わらず選択の連続であることから、決して避けようのないものです。誰もがミスをします。もうこれはどうしようもなくミスをします。しかし、そのミスの社会的人間関係的重大性、あるいは頻度は、ひとによって異なります。にも関わらずミスが起こる、ということは社会的には極力避けたいことなわけです。

そのため、<判断力>、ミスをしない確度をそう定義し、そこをもって優れた人間、劣った人間というレッテル貼り、数的システム化が大なり小なり行われます。無論それは絶対的尺度にはなり得ませんが、ミスが多い人間は不利な評価に追い込まれていくシステムであることは確かです。そしてそこでは往々にして、数的システムであると想定されているにも関わらず、公平なジャッジの基準がなく、イメージが先行することが多い。

そりゃそうです。ミスにも質がありますし、個人的ミスでなくても、評価する側がそこに絡んでいたとしても自己評価を正直に落とすか?ミスをジャッジする側まで含めたベターな評価基準を持ってる組織なんてそうそうありません。<日本国民全員採点制>でもなきゃ無理じゃないでしょうか。

結局、組織や社会をより円滑に動かしていくために必要なレッテル貼りであるにも関わらず、数値的に単純化しにくい領域であるために、却って個人的な人間関係や好き嫌いに左右されることになりがちなわけです。

また、ミスを正直に認めるということに対しては、やっぱり社会や組織側にとっても積極的報酬を設定しにくい。昔からそこは正解がなく、みんな苦労してきたところのようで、かなり揺らぎがありますね。昔の中国の軍隊なんかでも、敗北した将軍を処断するか、どうかとか、退却は何里までOKとか。戦争は生死の問題になっちゃいますから、厳罰化しすぎるとすぐ逃げちゃうしで、結構大問題だったみたいで。刑法上でも、自首とか、共犯者をチクる行為の扱いとか。ミスや敗北や犯罪は正直にまかり出ようかなんだろうがマイナス要素であることは確かなんですから。

そうすると、やっぱどんなに道徳的に教え込まれても、ね。チートしたくなりますよ。生存欲求に関わりますから。走れメロスじゃないですけど、極端な話、お前死んでも正直モノでいろ、と子どもに徹底できますか、って話ですよ。

結局、日本の社会全体の問題でもあるんですけど、「チートは駄目!絶対許せない!!」っていう道徳観だけが浸透してることで、思考停止に陥っちゃってるんですよ。そんで結局社会にチートが蔓延して停滞した、や~~~な雰囲気に支配されてんだから、どないやねん、と思うわけですが。

そこで、ブラジルサッカーなんですけど。

アルゼンチンサッカーとかもそうなんですけど、南米の文化って、結構チート(マリーシアとかいいますが)に積極的意味付けをしちゃえる、これを寛容性といっちゃうとアレですね、こういったほうがいい、賢さを持ってますよね。悪いことなんだ~、悪いことなんだ~~~とばっかり考えてたらミスはただのミス。でも、ルール上は間違いでも、それを活かすかたちでチートしちゃわないと生きていけないじゃない!って。それは生存していく上でも正しいと思いますよ。サッカーというスポーツだとわかりやすいですけど、ハンドでゴールしないとゴールできないとこまで追い込まれたのはミスの結果、でもチートしたことでそのミスを取り返せる成果になるんですから。ズルかろうが場当たりだろうが何だろうが因果応報が待ってようが、巧妙な嘘、そういう瞬発力がとりあえず身を助ける場面だって、間違いなくあります。誰にだってありますし、どこでだってあります。ミスを成功に転化できる場合だってあるんですよ。ですがワレワレの道徳観はワシントンの桜の木的あんまりパッとしない発想にそのケースを限定してしまっている。

つまり、ワレワレの道徳観は、ミスは悪いこと、そしてそのミスを誤魔化すのはもっと悪いこと、という負の決め付け、潔癖性のみによって成り立っています。それが完全に間違いだとはいいませんが、ズルさに助けられる場面はおとぎ話や神話、水戸黄門にだってあります。天の岩戸を開けるのにズルしたので神様たちは<神様失格>なんでしょうか?そんなことはわかっているのに、ワレワレは社会的に肯定された潔癖性を他者を攻撃する際にだけ利用しようとする。

結局ワレワレの閉塞感は、道徳的に向上できないことだけでなく、こういう最大の自分自身への誤魔化し、「ごまかしは許せない」という名の他者を許さない口実を用い続ける後ろめたさから来るものでもあるんじゅないのかな~~~。「俺はお天道様に恥じるようなごまかしは一切したくないし許せない!」といって大手を振って歩いてるようなヒトのほうが実際は結構キツイ生き方だと思いますよ、僕は(あなたは正しいのに、周りが悪いのにね、かわいそう、って意味じゃないですよ)。

子どもが嘘をつくとき、そのあまりの巧妙さに逆に感心してしまう、というようなことがありませんか?何かそういうところも立派な才能だし、ひとによっては伸ばしてやってもいいんじゃないかな~、と思ったりもするんですけどね。何か最近の若いモンは、ってのも、嘘の下手な奴ばっかり増やしてるのが一番憂慮すべき点な気もするんですけどね~~~。想像力のない人間が増えてる、これ確かに問題だと思いますよ。芸術的領域まで高めた嘘は、真実を超越しますよ。

まぁ、なんですね、何か他人に寛容性のまったくないご時世、俺ら余裕ないな~、と思いつつ、ワレワレより生存していく上での余裕がよっぽどないはずの南米の人々の創造性を見てると、こんくらいで余裕なくしてて、バッカじゃねーの、俺ら、とも思いますな。