河遊び

昨日、河の傍を通りかかったら子供たちが泳いでいるのを見つけ、これまですぐ近くに住んでいながら、泳ぐとなると海まで行く発想しかなかったのに気づいて(海もそんなに遠くないので)、早速一旦帰って海パン用意して河遊びに繰り出しました。

水深はかなり浅いところが多いのですが、瀬に横たわって流れるに任せている感覚は心地いいです。雑魚たちの魚影や、水鳥たちの傍に浮かんでいるのも何だか不思議な感覚です。

日本は昔からその島のかたち自体が龍に例えられるように、河川がうねうねと脈を造り、またその流れも地方によって速かったり緩やかだったり、かなり特色があります。僕は昔沖縄に住んでいたので、日本本州に引っ越してきたとき(広島県福山市)、雪、お城の石垣、電車と並んで、幅の広く流れの速い河(芦田川なので名称的には<川>でしたが)というもの自体に物珍しさを感じました。

那覇市近郊にあった<漫湖>を住んでいた当時は河だと思っていたのですが、まさに湿地で流れなんてものはなく、誰かに聞かされた、「あれは工業排水でヘドロだらけになったせいだ」というのを信じ込んでいました(実際、そのせいもあったようで、最近の写真を見るとえらくきれいになって当時とは印象が違いますが)。

そういえば、1級河川、2級河川ってあるじゃないですか。あれって今の今まで、温泉の名湯百選みたいな、河川の規模や立派さを評価する基準かと思い違いしてたんですが、沖縄に住んでたころ、漫湖が2級河川というのを見て(あれは河川ではないらしいので覚え違いかもしれないですが)、ああ、ヘドロだらけだからなんだろうなぁ、と勝手に心を痛めていたのを思い出しました。

どの地方も河川、水脈というのは身近な存在でしょうが、僕は福岡市に来てから、河川の存在を特に意識するようになりました。それくらい、(自転車で)走ってるとすぐに結構幅の広い河川に行き当たる。そして、そこで生活する鳥類や魚たちが身近に感じられるんですよね。海が近いので、海から内陸へ、陸から海へと走っていくときの景色の変化もなかなか楽しめます。昨日泳いだ河も、少し下流に行けば潮干狩りをやってるのを見かけたりもします。以前長く住んでいた富山市では、河が干水と増水を繰り返す厳しいイメージで、あんまり身近に感じなかったのもあるかも知れません。

河童なんかも、あんまり流れの速い急流よりも、この辺りの河川の方が、僕は、ああ、確かに住んでそう、という感じがします。というか、人間そのものの存在が結局河童みたいなもんなんじゃないの、ナイルチグリスユーフラテスガンジスインダス黄河長江などと小学生の感想文のようなことを考えたりもするのです。SFとかの無機質な未来社会の描写の中であっても、河川、海、雨、地下水路、それどころか水が出てくるだけで、猥雑な臭いというか、生命の臭みが醸される気がします。手塚治虫の『火の鳥』にもそういえばそんな描写がありました。ヘミングウェイとかマーク・トゥウェインの作品に妙に生命感があるのも、河川がよく出てくるからかもしれません。