ふたりのアイに言葉はいらないぜ!

 文系の学問というのは、いかにすれば人間同士が分かり合うことができるか、ということをああてもない、こうでもないと延々と探求してきているようなものだと思う。

 そんな世界で、最近流行のキーワードらしいのが、<ディスコミュニケーション>(最近といっても、学問の世界では流行のスパンが非常に長いようなので、ここ1,2年とかいう話ではないと思うが)。つまり、コミュニケーション不可能性、人間同士が本当にわかりあうことは不可能である、という前提から出発する議論である。

 「想像してごごらん、国境のない世界を」と唄った夫妻の努力を無にするような開き直りだが、確かに理念上、我々はお互いを完全に赦し、頭を垂れ、愛し合うことが<できる>。だが、現実にはこれほど難しいことはない。他人には寛容を要求しても、自分は最後の一線を守ろうとするのが人間の習性だ。こう書いている僕自身、コミュニケーション能力不全ではないかと思われるほど、周囲に迷惑をかけながら生きている人間だ。

 仏教には「問題があると認識したとき、その問題はすでに解消されている」という意味の言葉があるらしい。確かに、何か不満や問題点があると感じて、それを主張するために口に出す前に文章としてまとめようとすると、大抵の問題が実は大したことではなく、自分の中で解決がついてしまうものであることに気づく。要するにそれを問題と感じる自分に実は問題があり、個人のこだわりが出発点に過ぎないのだと。

 だが、そのように全て納得して大人の対応で生きていって本当に問題はないのだろうか。それこそ仏教的無抵抗主義のからくりであって、現状追認に過ぎない。全ての人間がそんな諦観を受け入れていれば、アメリカの黒人は未だに奴隷だろうし、中国は日本の植民地のままだろう。問題がないのではない、ある自分より巨大だと思われるものの都合でつくり出された前提を、覆せないと諦めているだけではないのだろうか。

 大抵の人間にとって自分が現状に不満であることが最大の動機となり得る。そのような<我侭>を全人類が捨てるということがあり得ない以上(手前勝手は止めろ、と命ずる意思がそもそも自らの勝手のためにそれを望むのだろう)、それを放棄することは多分に一方的な<忍従>に過ぎない。

 これまで論じられてきたコミュニケーションというのは、実は一方の論理を是とし、もう一方にそれに従うことを要求する地主と奴隷の理論であった、といっていい。詰り、ディスコミュニケーション論というのは、実はそういった見せ掛けの相互理解を否定することによって学問を<地主>のくびきから解き放とうとするものに他ならないだろう。

 それでは、<コミュニケーション>に代わって文系の学問の目的となり得るものは何か。学問がずっと到達点に掲げていたものをいきなり否定してしまったら、目的性を回復するのは容易なことではないと思われるが、おそらく新たなキーワードとなりつつあるのは<アフォーダンス>であろうと思う。

 affordanceというのは、要するにキリスト教の回心の理屈を言い換えたものであろうと思う。多分に生物学的な説明なので僕には理解が難しいのだが、要するに生物は環境の中に実在するものの有用性を自らの主観によってつくり出しているのではなく、既に実在するものの中に内包された情報を選択的に取り出しているだけである、ということが肝なのだろう。

 環境の意味を個々の人間やグループが<名づけ>によって生み出すのではなく、誰にとっても同じものを異なる仕方で利用しているだけだというのは一見画期的な発想の転換に思えるが、実際には宗教の常套句であって、仏教の本地垂迹論、キリスト教の言説に立ち返ったようなものだと思う。ただ、絶対的なものの根拠をマルクスやカントが生み出した人間の思想や理論から、<モノ>に転換したというレトリックが秀逸なのであり、同時に誰が環境の価値を規定するのかという一番気になるところを曖昧にしているところが詭弁に陥る可能性を内包している(本当に<神が>ということになりかねない)。

 ただ、人間同士が心と心で分かり合うのではなく、モノの有用性の共通理解によって連帯しうるというのは、言葉を尽くせば尽くすほど断絶しつつある現在の世界には必要な割り切りだろう。

 学生時代の先生の旦那様が用いた喩えで強く心に残っているものがある。全く言葉が通じないもの同士であっても、その眼を見つめ合い、一緒にいるだけで幸せな気持ちになれないというのだろうか、ということだ。愛とは'I Do(誓います)'の言葉によって成り立っているのではなく、モノ的な価値、セックスや共有する家によるものでもいいのではないか?それによって二人の愛が不純になるとはいえないと思う。言葉の空しさに比べれば、何倍も強い結びつきなのではないだろうか。