ボヘミアン・オデュッセイ

 お盆に列車で長距離移動しなければならなかったので、出発前に本屋に寄って小説を物色しました。

 最近までずっと小説をあまり読まない期間があったので、何を読んでいいのかわかりません。以前ミランクンデラの『存在の耐えられない軽さ』が僕には読みやすくて良かったので、クンデラの最近の作品『無知』を買ってみました。しかしハードカヴァーは高い・・・(TT)。

 訳者との相性もあるんでしょうが、やっぱりクンデラはすらすら読めます。いきなり作者の視点で哲学的な考察とかも入る変な小説なのですが、そういう過度に小説内の美意識に入り込まないようなスタイルの方が疲れないのでいいです。

 ただ、雰囲気も内容も『存在の耐えられない軽さ』と似通ってる感じがします。どちらもチェコへのソヴェエト進駐以降の状況に関連した内容なので仕方ない気もしますし、クンデラの他の作品も読んだことがないので作風として論じることはできないのですが。年長の結構精神的に成熟した男と母の影に怯える男より若い女性が中心となって進む展開には多くの類似が認められることは否めず、この男性がクンデラ自身を投影してる部分もあるのでは?と勘繰ってみたくもなります。

 作者自身と同様、20年間の祖国(チェコボヘミア)からの亡命生活(オデュッセイ)を経た登場人物たちも『存在の耐えられない軽さ』の登場人物たちより否応なく年輪を重ねて来ており、やはり老いを感じさせる面も多々あります。1989年、チェコ民主化=ヨーロッパにおけるソヴィエトの影の消滅、という、唐突な事態の変化に、クンデラ自身、この小説が書かれた2001年時点でも対応できていない感じもします。長い不在の帰結は、結局は異なるかたちの不在の始まりに過ぎない、という初めからの空白感に支配されたまま物語の終局を迎えた感じで、意味的ブレイクスルーも読み取れず正直エネルギーに乏しい作品ではあります。世間的には毒にも薬にもならない雰囲気のみの作品なのかも知れませんが、実はそういうファッション的小説が結構好きな僕にはなかなかいい時間潰しになりましたw。もっと内容のある小説を読むべきかも知れませんが、そんな濃ゆいのはもうなかなか読めません(TT)。

 というよりも、最近は結局小説ってファッションじゃない、おしゃれな気分に浸るもので上等、十分だよ、それ以上何を求めるの、という気分ですw。活字中毒の僕が、これまで長い間小説から離れていたのは、お金がない、というのは置いといてもw、作者の業の重さ、思い込みの重さが出ている作品が好きだと思い込みながらも、他人の重量と向かい合うのをキツく感じるようになってきていたからのような気がします。しかし、考えてみれば、作家は誰もそんな歪なかたちで作品を受容されるのを初めから求めてはいないはずだし、作品の出来不出来を測る尺度にも含まれない、本当にいい作品というのはこちらが背負い込まなくても伝わるものだ、という認識に変わってきました。そうすると、一気に視野が広がり、世の中にはまだ僕の知らないいい作品が一杯あることに気づきました。

 う~ん、もったいない。もっと早く開き直っちゃえば良かったのに。まあ、僕自身、そういう病気の壊れ方をしてたのでしょう。人間の心は常に何らかのかたちで病んでいるものでしょうから、仕方ないっちゃ仕方ないですね。今の方がおかしい部分が多い気もするしw。