ユルユル脳味噌と石頭

 トシをとると頭が固くなる、というのは、まあ別に泉門(幼児期に開いている頭蓋骨の隙間)が締まって脳味噌がギチギチになるから、などという科学的?論考を持ち出さなくても、当然のことで、長く生きていればそれまでの経験や学んだことがデータとして蓄積される。そのため、それに頼る方が事態に容易に対処できるケースが多いため、必然的に選択肢に不確定的な要素が多くなる、と。

 ただ、そのデータをピックアップするための状況判断に、勘違いという錯誤が生じる割合も増える傾向にあるといえると思います。これは経験則によって反応が自動化、短絡化してしまい、観察が充分でないためでしょう。

 僕は年長の頑固なひとたちを見るたびに、失礼でしょうが、自分はああはなりたくない、と思ってしまいます。別に若い人間が感性で動く方が優れている、とはいいません。振り返ってみても、大学生とかの頃というのは無駄なことに時間を費やし、友人関係とかもダラダラとしてあまり有意義なものではありませんでしたし、もう一度同じ経験をしたいとは思わない(今も対して変わらないですが・・・・)。

 でも、やっぱりマンネリは嫌だし、興味があることなら新しいものをどんどん知っていきたい。経験をより多くのことを効率的に知ることに使っていきたい。来年の今頃はもっと聴いたことのない音楽、ことばを知っていたいし、仕事にしたって、今とは全然違うかたちでやっていたい。その意識はいつまでも持ち続けることは可能だと思います。

 だから、石頭な大人たちにも、ただ相容れない勘違いで争うしかできないのではなく、習慣から少し踏み出せばもっといい関係を築くことが出来ると期待し続けたい。相手のほうが年上だから、目上だから、まったく身近に感じられない政治的重要人物だからと、諦めないでいたい。

 絶望は最大の勘違い、思い込みだ。24時間テレビのような空疎なお題目としてのオプチミズムは持つ必要はないけれど、光を持たないシニカルさほど愚かしいものはない。

 未来にばかりでなく、現在に、過去に、期待を持ち続けることは恥ずかしいことではない。