過去からの声

 最近の言論風潮で一番気に入らないのが、過去を美化する態度だ。

 靖国神社には国を護るために命を失った英霊たちが祀られている、だからそこに一国の首相が参拝することは当然のことである。

 上の主張には現実認識を歪曲させる要因となりうる大きな誤認、あるいは意図的な歪曲がある。

 日中(中日)戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦で亡くなった兵士たちは国を護るために戦死したのではない。

 この戦争は日本側から仕掛けた、侵略戦争、先制攻撃によって端を発したもので、決して日本が他国に攻め込まれたわけではない。大戦末期のソヴィエト連邦による相互不可侵条約違反による満州国侵攻のみが、他国からの一方的侵略といえる。この稿はソヴィエトを批判するためのものではないが、この戦争で国を護るために戦死したといえるのは厳密にはこの戦いの犠牲者のみであろう。だが、それにしても国際法で認められたこととはいっても日本が力によって属国化した地域で起きたことであり(国際法で認められたことなのだから、といって韓国、台湾併合や満州国建国を正当化するのはムシが良すぎないか?)、現在の日本国を護ろうとしたとはいえない。

 つまり、日本はこのままでは西欧の植民地にされるとの被害妄想を持っていたのか知らないが勢力拡大を企てたものの、多くの間違いを犯して追い散らされ、引き時をわきまえず、最後には休戦も条件付の降伏すら認められない完敗を喫した、というのが事実だ。この戦争で死ぬことのどこが国を護るための有為の戦死になり得るのか。敢えて乱暴な言葉でいえばまったくの犬死である。

 祖父や父が、兄弟が、身を楯として護ろうとした美しい日本を、守り伝えなければならない、と。確かに遺族が家族の死を犬死と思いたくない、価値あるものとしたい、という思いはわかる。だが、悪しきはその感情の部分に乗っかって自らの利己的な考えを正当化しようとする連中である。このような情報操作こそ、泥沼の戦争にかつて日本を引きずり込んだ元凶だ。

 だが、なにより情けないのは、現在が見えないからと美化された過去に飛びつくことだ。過去は決して美しくなどないし、終わってもいない。過去も現在も未来もすべては固定したものではなく、多くの真実は掘り起こされるのを待っている。見えていなくてもそこにあるのだ。

 誤魔化し、不都合なものを切り捨てることで過去が変わってくれるわけではない。そしてそれによって現在から目にしたくないものが消えてくれるわけではない。なによりも過ぎ去ったことならば望むようにつくり変えられると考えることが死者に対する最大の冒涜であり、恥ずべきことではないか。