ゾンビの性格診断

人は見かけによらない、という。

この常套句は、我々は他者の意外性、隠された一面に常に大きな関心を抱いてる、ということをあらわしている。

「美人なのに意外と~」とか、「真面目そうに見えるけど実は~」という発見は、対象を理解したような錯覚をもたらし、身近に感じさせる。見かけや普段の姿と、「ふとした瞬間」、ある特定の状況における落差が大きいほど、人は対象に関心をかきたてられ、親近感をいだくことにもなる。秘密を持った人間が魅力的に映るのは、その秘密を暴いたときに現れる裏の顔に対する期待の大きさによるものである。

逆に、常に印象の変わらない人間は、詰らない人間、いや、油断のならない存在、不気味な存在とすら認識されうる。このような人間は馴染みにくく、閉鎖的な人間とみなされ、どのように<いいひと>で表面的には友好的に接することができても、周囲の人間は常に漠とした不安を抱き、それを紛らすために陰口を叩き合うなどしてかれに対する緊張を和らげようとする。

他者理解とは思い込みである。人格における多面性は、他人を受容する柔軟さを現わしていると認識され、もっと自分をさらけ出して寄りかかっていってもいいかもしれない、と、接する人間の幼児的な甘えの意識を引き出す。人間関係の初期において、とっつきやすい人間とは、このようなイメージコントロール、セルフプロデュースに長けている人間であるといえる(ただ、これを計算してやっていると取られると、「ふとしたときに見せる真実の顔」ではなく、つくったものと思われかねず、嫌われる要因ともなる)。

前置きが長くなったが、では、モンスター界におけるゾンビはどちらのタイプかといえば、これは圧倒的に「表も裏もない存在」である。これは異端的であろう。

吸血鬼や狼男などは、まさに表と裏の顔の落差の大きさによって恐怖の対象ともなり、また底知れぬ(多分にセクシュアルな)魅力も湛えているのだといえる。「誘惑者」たる悪魔、山姥などもそうである。彼らのアイデンティティカリカチュアライズされた二面性にあるといっていい。

対するゾンビ、これはもう圧倒的に平板、静的な存在である。かれらのアイデンティティ(ゾンビにアイデンティティなとという言葉を使うのも語義矛盾な気がするが)は、ただ、歩き回る死者、人間を見ればよたよたと襲ってくるモンスター、ということにに尽きる。表も裏もない。到底理解などできよう筈もない。

かれらはドラマ性、個性を持ち得ない稀有な怪物であり、絶対的に生者と断絶している。逆にいえば、ロメロ(George A. Romero)の最近作"Land ofthe Dead"(2005)におけるように、ゾンビに何がしかの個性、人格を持たせようとしている何例かの試みは、無個性なゾンビの集団にアイドル、カリスマを生み出し、ゾンビ映画が持つ発展性のなさを打開せんとする試みとは思われるが、そのような試み自体が実はゾンビの存在意義(ゾンビに意義というのも変だがw)の否定、本末転倒であるともいえる。

このような独特な不気味さ、異質さが、ホラー・モンスター映画の中でもゾンビ映画を一種特別なものとし、好きなひとはとことん好きだが、まったく無関心なひとも凄く多い(涙)というカルトなポジションを築いた要因のひとつといえよう。『新ゾンビ(PREMUTOS)』(1997)など、復活したイエスがゾンビとして描かれる作品がいくつかあるが、まさにゾンビの得体の知れなさは神のそれに比類しうるものであり、観客は残酷描写に目を輝かせながらも、神の見えざる手を思い、深い思索の道を歩んで帰宅していくことになるのである(ホンマかいなw)。