音楽家はなぜアーティストと呼ばれるのか

様々な芸術家がいる中で音楽を演る人間を特にアーティストと呼ぶ風潮があるのはおかしいのではないかという意見をたまに目にします。

 その疑念自体は尤もだとは思うのですが、この呼び方はレコード会社が意図的に定着させたものだとか、ポピュラーミュージックの音楽の内容を見ればアートと呼ぶのにはおごかましい、職業音楽家をアーティストと呼ぶのはおかしい、などという見方にはちょっと首を傾げてしまいます。

音楽に携わる人を特にアーティストと呼ぶのは、パフォーマンス・アートの一表現形態との認識からでしょう。

つまり、舞台芸術、サーカス、体操などフィジカルアートともよばれる表現の仲間である、ということです。これはそもそも現代のレコード音楽が前史においてはメディスン・ショウのような旅回りの演芸一座の出し物の一部として発展したことや、デヴィッド・ボゥイなどがパフォーマンスアートに接近した60年代後半のグラムロックムーヴメントの流れなどを反映しているものと思えます。

 このような人々の表現をアートと呼び習わすのは、支配者階級に認められたものでなければ、例えば旅回りの一座をチンドン屋、曲芸団などと賤しみ、一段低いものと見るような日本語と比べれば、少なくとも言葉の上では敬意を持った扱いであり、また、その他の商業的芸術表現同様、内実的にもアートと呼んで恥ずかしいということはないでしょう。

 現在音楽に携わるひとびとのみが特に限定する定冠詞的なものをつけずにアーティストと呼ばれることが多いのは、他のパフォーマンス・アートの認知度が低く、特に区別する必要がないということも一要因ではないかと思います。また、それは商業的分野に非常に近接したために生じたポピュラリティだとしても、それによって音楽のパフォーマンスアートとしての芸術性が根本的に損なわれたと見做すことはできません。私見ですが、いわゆるショービジネスと呼ばれるマドンナのステージなどは、パフォーマンスアートというカテゴリ全体の尺度においても、非常に高いレヴェルに到達しています。

 また、工業デザイン、広告デザインなどをアートと呼ばないのも日本一流の卑下、謙譲的、あるいはひとつ下に見る見方で、欧米では<アーティスト>として認められている筈です。

 そして、あえて現在のポピュラー音楽を芸術的でないとし、商業的なものとして区別する為にそれに携わる人々を<ミュージシャン>と呼ぶとしても、やはり暗に音楽家を芸術的な実践者と認めているということになります。

 <ミュージック>とは、<美神(ミューズ)>から来ている言葉であり、音楽は数ある芸術表現の中でも神への聖なる捧げものとして、古来最上の地位を賦与されていたということを示しています。現在特に音楽家が<アーティスト>と呼ばれることが多いのもこれに似た意識で、音楽が持つ様々な芸術分野への特別な影響力を認めてのことであるとも考えることができないでしょうか。

 現状においても、録音音楽となったポピュラー音楽が持つに至った<オリジナル・アーティスト>という優位性、特別な著名性、記名性を鑑みても、職業音楽家は最も身近かつインディヴィジュアル化された<アーティスト>であり、アート全体を代表する存在のひとつと考えて差し支えないと思います。

 日本では儒教の影響からか、古くから技術者、技能者を賎しいものと見做し、非常に低い立場に置いて来ました。現在芸術と認められている表現はすべて、実践者が苦闘しながらその立場を勝ち取ってきたものです。ですが、音楽表現というものが一定の評価を得るようになった現在でも、一部の形態の音楽は、その主な実践者が非常に若く、権力を殆ど持たないことから、未だに不当に他の音楽と区別される傾向があります(音楽の質の高低という判断基準は、慎重に取り扱うべき問題であり、少なくともある集団(分野)を仮に分別して、これは質が高いから芸術、これは低いからただの商品、と区別することは不可能です。あえて乱暴な言い方をすれば、クラシックにも糞はあり、ヒップホップにもエヴァーグリーンな輝きを持つものはあります。そしてある人にとってはただの屑でも、他の人々にとっては人生を救うものであることだってあり得るのです)。

 まとめますと、(あらゆる)音楽家をアーティストと呼ぶことは言葉本来の意味から正当な理由があり、また、商業的、記号化された表現であってもそれは変わらない、というのが私の意見です。

 むしろすべての表現者、技術者、技能者はアーティストとしての自覚と自負を持ち、<例え>商業的なものであっても、それを芸術表現と認識すべきであり、その意味では職業的(商業的)音楽家をアーティストと呼び習わし、また当人たちも自らをアーティストと認識することは、職業的自負と自覚を促す好ましい用法であるように思えるのです。