盗作とオマージュ

 最近、立て続けに、槙原敬之松本零士に「俺の『銀河鉄道999』の決め台詞を盗まれた」と難癖をつけられたり、宮崎吾朗が「「テルーの歌」の歌詞は萩原朔太郎の詩そのまんまだろ」と告発されたり、いわゆる<盗作騒動>が持ち上がっていますね。

 しばらく前には安部なつみが詩の盗作で一時活動自粛に追い込まれたこともありました。とかく日本では<言葉の盗用>について周囲の見る目は厳しいようです。まあ、<コトダマ>の国ですからねぇw。

 ただ、こういったケースを見ていると、どうも僕自身は簡単に同調して非難する気にはなれないんですよね。<盗作>というと悪いイメージですが、それが完全に非難されるべき行為なのか、そう簡単に極め付けられる問題とは思えないのです。

 よく知られたことですが、全世界的に伝統的歌謡というものは言葉のバンクともいうべきものが歌い手たちに共用されており、かれらはそこから詞(ことば)を借りて歌を現出します。楽器演奏に決まったスケール、フレーズなどがあり、それが共有されるのと同じことです。現在のどんな最先端の作曲家でさえ、先人の用いたモチーフを多かれ少なかれ援用することなしには一曲の曲もあらわすことはできないでしょう。

 定型的なフレーズ、詞というものには、つきまとうストーリー、神話があり、援用されることによってそれは伝承され、新たな意味を獲得します。それはブルースの詞を多くの部分で援用することで進展したロックンロールによって現代全世界にマスな財産として共有されており、日本語においても同様です。

 ただ、詩の世界には少々異なる伝統があるようです。詩は世界の多くの地域で鋭敏な自意識の発露として発達し、他人が用いた技巧的フレーズと同じものを使わずオリジナルのものを産み出すことに心血が注がれてきました。詩はむしろ富裕階級の競技として発展してきたものといえるでしょう。

 長らく、歌謡的詞には芸術としての価値が認められず(芸術とは個人の芸術性によって生み出されるというルネサンス以来の価値観により)、Bob Dylanのようなより<詩>に接近したことばを用いる歌い手の出現によってようやく芸術として認められるようになってきました。ですが、このような流れの中で著作権によって作者の独自性が保護されるようになった現在においても、多くの歌は歌謡的伝統を受け継ぎ、汎用的(普遍的)フレーズを利用し続けているのであり、それはDylanやThe Beatlesのような<近代>以降の作家の生み出したフレーズにも及びます。

 そういった経緯から、僕は歌の歌詞に過度な独自性を認め、保護することには疑問を持っているのです。ですが、問題は、槙原敬之のようなケースはともかく、ほとんど他の作家が書いた詩をそのまま援用する安部なつみや宮崎吾朗のような場合です。

 彼らの場合、特に責められる根拠はこのような現在の<歌の詞>の状況において、発生するのでしょうか。これはかなり難しい問題に思われます。

 どうしても僕の知っている範囲の話題になってしまうのですが、北欧では10世紀の前後、合わせて400年ほどの間、スカールド詩と呼ばれる非常に技巧的な詩が流行しました。ここでは、他人がこれまで用いたことのない語順、言い換え、二つ以上の言葉による言い換えの技巧が競われ、他人の用いた技巧を借用した詩人で<剽窃詩人>という不名誉な仇名をいただいたひともいます。ですが、そのひとの詩は、第三者(つまり競技者以外)の目から見れば充分に芸術的に洗練されたものであり、ただ難解なバロック的方向に向かいがちな、独創的な詩人の技法をより一般化してくれている、という点で逆に有難い感じもします。

 それではこのような見方を安部なつみや宮崎吾朗の場合に当てはめてみるとどうでしょうか。率直にいってしまえば、安部なつみが盗用した(とされる)歌詞は小室哲哉YUKIaikoなど彼女よりもずっと音楽分野のアーティストとして支持される作家の手になるもので、安部なつみが難解な技巧を一般化した、とは言い難い気がします。それに、これを発表したのは音楽を伴わない詩としてであり、それでは詩の土俵で評価されても仕方ないかも知れません。

 宮崎吾朗についても大体同じことがいえるかもしれませんが、これはもともと曲がついていない(と思われる)詩を音楽化し、しかもそれが広く好意的に受け入れられているのですから、ある意味芸術に魂があるのなら、この詩の霊は多くのひとびとの心に届くようなかたちを用意してくれた宮崎吾朗に感謝しているくらいかも知れませんね。宮崎吾朗自身も他者に指摘される以前に萩原朔太郎の詩から着想を得た、と明らかにしていることですし、ある一定の芸術に対する敬意を失している行為とは言い切れない気がします。

 知れない、気がする、と言葉を濁してしまうのは、僕自身、正直なところこのふたりの場合に関して態度を決めかねてしまうからです。僕は安部なつみを音楽分野のアーティストとしては別に非難すべき存在であるとは思えないし(好きではないですけどねw)、逆に宮崎吾朗は映画監督としては映画という芸術を冒涜するような製作態度に大いに不満です。

 でも、この盗作騒動は、どちらも結局かれらの勝負すべきフィールドではない部分での<失態>なのです。ありていにいってしまえば、

「でもなあ、これって結局、無能に見える人間が売れてるのを僻んで因縁つけたいやつらが、一番難癖つけやすいから標的にされてるだけだろ?

 本業の方ではいくら稚拙に見えても「そのかれらの作品を喜んでいるひともいるのです」の一言に黙らされてしまうから、一番言いたいところじゃなくて迂闊さが出た部分をつっついて溜飲を下げてるだけで。しかもそれ本業とは関係ないやん」

 という気分なのです。そういうのに同調するのもなんだかなぁ・・・・・・。倣岸ないいかたですいませんが、本当にそう思うんですよ。

 実際にはその人の人間性をいかに下劣にみせたところで、本当にいいたいところ、問題としているところが解決するわけじゃないですよ。映画の方での堂々とした批判に慎重になるのは、それを喜んで見ている人が少なからずいて、その人たちを刺激するとまずいという気持ちがあるからでしょう(無論他の大人の事情もあるでしょうが)。

 宮崎吾朗のようなひとがいきなり大監督のごとく大作映画を任されてしまう映画界の現状に不満があるのならそこを指摘するべきだし、そんな議論の余地がないように思われる、本筋から離れた自分が傷つかなくて済むところからクサして見せたって何の解決にもならないんじゃないですか?

 結局宮崎吾朗および『ゲド戦記』の批判めいてしまいましたが、僕はこういう作品が大作として大規模な興行に乗るのは映画という芸術表現にとってまずいと思います。ですから、本来の映画論として、芯食った部分での議論がもっと沸騰することを望みたいなぁ・・・・・・、と、結局また不平不満になってしまいました・・・・・・・・(^^;。