おわび(ていせいはまだ・・・・)コメントの続き③

「おわび(ていせいはまだ・・・)」(http://blogs.yahoo.co.jp/liki1978/42081817.html)および「おわび(ていせいはまだ・・・・)コメントの続き」(http://blogs.yahoo.co.jp/liki1978/42966921.html
 にお寄せいただいたコメントへのお返事です。

 投稿字数制限に引っかかりましたので、「おわび(ていせいはまだ・・・・)コメントの続き②」(http://blogs.yahoo.co.jp/liki1978/43039977.html)の続きとして投稿させていただきます。
 
 コメント欄に書いていくのは大変なので、ブログ主特権ということで(^^;、記事の形で投稿させていただきます。

 例によって、読まれる場合は以下の空白行をすべて範囲選択してください。




「説明会などにも、呼ばれたら必ず誰か行くべきでしょう。しかし…反対派やマスコミが、手ぐすねを引いて待っています。こんなことが書いてある、誰々がこう言った…ちょっとしたことでいつも大騒ぎです。少し驚いて、よく見てみれば、何?…こういう運動のやり方は、結果的にマイナスにしかならないと考えます。」

 無軌道な批判を避けるためには、いいにくいこと、、説明しにくいことも(必ずしも後ろ暗い、という意味ではなく、技術や計算の説明が難しい、ということも含みます)積極的に開示していくことが一番の早道です。それは結局は批判の方法に道筋をつけ、反対派とももっと意味のある討論の可能性を開き、推進側が臨む「理解」をより多くの人から得ることにもなるのではないかと僕は思います。少なくとも僕が現在の事業体の広報から得たのは「理解」ではなく、「情報不足による判断不能状態」です。

 喩えになりますが、広報戦略の話題としてみた場合、そう遠い例ではないのでいいかと思います。今日、ソフトバンクが携帯の「予想外割引」の<無料>強調広告を、景品表示法に違反する可能性があるとして公取委に指摘され、修正したとの記事がありました
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061101-00000004-yom-bus_all
これなど、事前にいくらでも予想できた事態で、このことによってソフトバンクが偉い、などと持ち上げる気はさらさらありませんが、少なくとも企業のリスクマネージメントとしてはまっとうな姿勢でしょう。こういった姿勢は一般企業には常に期待されていることではないかと思います。

 原発事業体の広告はどうでしょう。寄せられる批判は、煙草産業、そこで働くひとにとっては屈辱的ですらあるかも知れない商品表示を義務付けられているあの煙草産業に比べて決して少ないとはいえないと思います。少しぐらい微妙な情報の開示を積極的に行ったところで、今以上に風当たりが強くなるとは僕には思えません。

 勿論、事業体の態度についてはjcfさんが関わる話題ではありませんから、これはjcfさんへの批判ではありません。jcfさんは原発のエネルギー効率という僕に疑問について大変貴重な情報を寄せてくださったのですから。問題は、事業体のHPのどこにもjcfさんが寄せてくださったような情報が提示されていないことだと僕は思います。


「ただ、ここで議論してきたのは、個人の意見の問題ではなく、考えが揺らがない人…「絶対賛成派」「絶対反対派」(「議論の仕方」7.3)が、「事実を見る前から結論を決めてしまう」というテーマであったと理解しております。<生理的に受け入れられない>は十分な回答でした。これに対しこちらから申せることは、知らなければ怖いということ、また、受け入れられる人もいること、それだけです。
「事実を知る前に結論を決める」がいくら演繹法に類似し、それが科学的哲学として数学などの分野で確立した地位にあるとしても、今、この原子力の問題に対する姿勢として適切であるとは、まさかお考えにならないでしょう。私の苦手な、ディベートをされています。トーレ様が反対役、私が賛成役で、ディベートをする…そういう<前提の共有>があったとお考えならば、私が完全に誤解していたということでしょう。」
 なぜご理解いただけないのでしょう。もしわれわれが、例えばjcfさんの危惧される「国のエネルギー自給率」解決の手段として、原子力が適当か否か、というテーマで話し合うと相互了解があったのなら、それは「議論の仕方」の定義するところの「討論」、僕が前提の共有された議論と呼んでいたものです。それを決めずに、自由に意見を交わすのは「対話」です。ここまでのやりとりは「対話」です。 もちろん「トーレ様が反対役、私が賛成役で、ディベートをする…そういう<前提の共有>があった」筈がありません。僕は前提の共有がなかったといっているのです。jcfさんがうけとっておられる逆です。
 jcfさんは遣り取りの途中、僕が「肝心の高速増殖炉に代わる代案には答えず、他のことを延々と書いた」と批判されました。これはjcfさんがその時点での討論の内容を「高速増殖炉の代案について」ととらえておられたということではないかと僕は思いました。僕は吃驚して「そのようなやりとりではなかった筈です」と訂正しました。事実読み返してみて、jcfさんが対話をそのような方向に誘導されようとしていたことに気づきましたが(少しでも実のあるやりとりとするためにそうされるのは賢明なことだと思います)、僕にその意識はなかったのです。それははじめにそのような議論の方向付け、前提が共有されていなかったために起きたすれ違いです。
 なお、客観的事実、という言葉に関してもすれ違いガあるようなので触れておきます。僕は客観的事実とは最大限の拡大解釈でも「殆どの人の目に明らかに形や生起の順序に関する認識が共有されている事物」だと認識しておりますが、それを重視する点では人文科学系学問は決して物理化学系などに劣るものではありません。僕も、幻やファンタジーを論拠にするつもりはさらさらありませんのでお間違いなきようお願いいたします。

「トーレ様や無神論家様が次々に出してこられた別の反対理由に、いくつかには同意し、また、いくつかには納得できず、反論させていただきましたが、結局、敵対心を生むことにしかなりませんでした。先日述べましたように、こうなるのがいつものパターンです。「議論の仕方」にも、自説を先に完成させている方には「反論してはいけない」とあり、適切な対応法が述べてありました。深く反省いたしましたが、残念ながら、もう遅いですね。」
 このような認識をされると困ってしまいます。敵対心を生んだとすれば、大変失礼ですが双方の心無い言葉、意識、意識せずに関わらぬ、発せられた本来語られていたのとはまったく関係ない偏見によってです。それについては僕も猛省しなければならないと思います。ですが、それ以外のお互いの主張については全く恥じる必要はありません。jcfさんがリスク容認、僕が原発を受け入れられない立場を崩さないからといって、それがなぜ「自説を先に完成させている方には「反論してはいけない」」ということになり得るのか理解できません。僕はエネルギー問題が緊急だろうが原発は受け入れられない、jcfさんはエネルギー問題解決のためなら原発も容認する(他の代替エネルギーも)。お互いにある政治的見解に基づく立場ですが、僕だけが、jcfさんの「原子力エネルギー必要悪論」に譲歩しなけば「完成した自説」に固執する人間との偏見を受けねばならないのでしょうか。
 失礼ながら、僕や無宗教家さんが「理系対文系」といった論法の誤解を何度も解こうとしても、自説を変えられないのはjcfさんです。そして、jcfさんが「敵対心を生んだ」とされる後半のやりとりのなかで中心になっていたのは、悲しいことに僕が種を蒔いてしまった、この話題、「反原発」とも、「代替エネルギー」でもなく、この話題だったと認識しています。

「<生理的に受け入れられない>は十分な回答でした。これに対しこちらから申せることは、知らなければ怖いということ、また、受け入れられる人もいること、それだけです。」

 誤解は改め、正確な認識を得る努力はしますが、根本的な問題、すなわちウラン、プルトニウムは人体に無害にはなり得ない、ということが解決されない限り、僕が受け入れられないことは変わりないと思います。それは無知の闇を怖れる心ではないと認識していただきたい。科学不信、といわれようが構いません(言葉の真の意味での科学は未だ完成していません)。人間は間違うものです。重大な判断においてさえ。そんなヒトに、パンドラの箱の鍵を預かる資格が備わっているとは思えません。これを書き出すとまた話が別の方向に広がってしまうので控えますが、一言、最近の政治家の発言を見て下さい、ということばで、僕の最大の懸念についてはお察しいただければ幸いです。