<思想的に自由>であることの罠

 世の中見てて不快なのが、共産党とか社会主義とか、フェミニストとか部落解放運動家、環境運動家の頭の古さとこちこちさを哂い、勝ち誇るひとたち。あまつさえ社会の危険分子と思い込ませるひとたち。まあ僕も多分にそういう部分はありますが、やっぱ他人がやってるのを見ると良くわかります。醜いです。

 よくテレビで田嶋陽子が虐められてるでしょう。あんなに虐められて、なんでテレビに出続けるのか、ひょっとしたらもう自分自身をイジられ芸人と認識してるのかも知れない。田嶋陽子フェミニズムが一昔前の、しかも適当なものだってことはわかりきってる。だが、それを指摘するひとの側にすっとついて、一緒になってチクチクやってる人の中によく見ると、変なのが混ざってることに気づきませんか?

 いきなり「昔は男子厨房に入らずといったもんだ、女房は三歩下がって旦那の影を踏まない、でもそれもやっぱりちゃんと意味があるんだよ」とか自説を挟むひと。頭のいいひとたちは田嶋陽子の批判に夢中になって、それを黙認したまま話が進んでいく。結果的に「特定の思想に縛られず、自由な立場で発言している」はずのひとたちが、もう一方の「コチコチ頭の原理主義者」の自説のお先棒を担がされていることになる。

 テレビの特性で、大体こういった討論はあるひとの見識を責める個人攻撃になって、それも結論が有耶無耶のままCMになったり番組が終わっていく。

 でもさあ、今更左翼の歴史認識とかフェミニストの政治認識なんか掘り返してどうすんの?といいたい。そりゃこういうひとたちは極度に世間知らずで、自分の学んできたことと社会の常識にギャップがあることが多い。でも、頭のいいひとたちが全力を傾注してやっつける必要がそんなにあるかね。いくら頭コチコチでも、こういうひとたちは僕から見れば善良です。だって少なくともかれらはひとのため、環境のために運動している、その建前を持っている。

 僕が不気味に思うのは、頭のいいひとたちの側に座って嘲笑している老人たちや政治家たち、作家崩れたちだ。確かにいまや左翼も右翼も男根主義者もフェミニストも差別主義者も人種解放論者も、いってることややってることは表裏一体、実はなにも変わりないかも知れない。だが、歴史修正主義者、愛国論者たちの心には深い闇がある。そこには幼稚な屈託から醸成された暗い欲望、憎しみがある。多くの人が知らず知らず、かれらの思惑に加担させられかねない、ねちっこいしぶとさ、小狡さがある。

 賢い人たちが誤解していることがある。自由な立場から事実を指摘し続けることで自分たちが正気な社会の牽引役になっているという自惚れ。それは実はかれらの忌み嫌う頭コチコチの連中にとって利用しようと思えばいくらでも利用できる歓迎すべき態度なのである。正気であることはいい。だが、どこにも偏らず、どのような社会を実現していけるのか。そういった理念を明確にせず、先頭に立って道化役を演じていく覚悟がないために、結局のところ都合のいいところだけ利用されて、正気の精神には耐え難い結果だけが残る。

 物事を公平に判断し、分析できる知能を持っていることは素晴らしいことだ。だが、それはどこまでいっても学習に過ぎない。様々な物事を見、学んだ後は、その状況に対してどのように関わっていくか姿勢を定め、理念とする。その後は決して根本的な部分を揺るがせず頑固に向かっていくしかないのだ。それは多くのひとたちが学生から社会に出るときに迫られる労働観の変化と同じことで、今度はそれを自らの精神に対して行わなければなりません。

 だが、世の中には自分の道を踏み出さず、傍観者の立場に安穏としているひとが多すぎる。かれらは一様に「結論を先に決めてしまったら眼が曇るから慎重に行かないと」というが、それではいつ慎重な腰を上げるのか。その間に軽侮すべき勘違い野郎どもに未来を決められてしまうだろう。本当のモラトリアム人間とはフリーターとか夢追いびとではなくこういったひとびとのことをいうのである。いつまでも社会のお客様気分。泥臭い生活の事情に飛び込んでいこうとはしない。僕はこのような態度を憎む。

 われわれは皆人生の道化を演じなければならない。異なるのは、その中に何か美しいものを残せるかどうか、だけだ。それは真の信念、誠実さによってしかもたらされない。歴史修正主義者、誤った愛国主義者たちにはそれがない。かれらの初期衝動は後ろ暗く、行動の根拠は歪んでいて他者をも自分をも思いやる気持ちがない。それ故に僕はかれらと闘おうと思う。