夢のクスリ

 僕はこの世のすべての表現は芸術だと思っている。

 表現するなにものかを持たない人間は存在しない。ただ、僕を含む大部分のひとはその方法を知らないか、正しく表現する方法を学んでいないか、最適でない方法で表現しているだけなのだ。

 最近、ゆとり教育のせいで現在のNEET問題やフリーター問題が生まれたのだ、などとここぞとばかりに主張する老人たちや若年寄どもがいる。誰もが皆夢追い人になれると教育したのが悪いのだと。

 だが、それはかれらの最大の問題から目を逸らさせるいつもの論法に過ぎない。大体いつの時代も社会問題の原因として子供たち、若者が槍玉にあがらなかった時代があるだろうか。安保闘争の時代、バブルの時代、オウム事件の時代、いつだって原因は子供の教育にある、と一番に指摘されてきたのではないか。

 実際には問題は、ゆとり教育に始まったことではない。日本において、夢を実現することとは、何かを表現することではなく、何かになることだ、と教えられてきた。表現したい内容を語らせないのだ。だから、子供たちは忠実に、その何かになる、ということにこだわり続ける。歌手にならなければならない、小説家にならなければならない、公務員にならなければ、弁護士に、医者に・・・・・・。これは400年以上続く日本の病根で、もっと広くは儒教の病だ。

 その表現する内容ではなく、職業の名前を権威化し、資格化することは、表現方法を産業化し従事者を食わせていくためには重要なことで、だからこそ社会の中に無産階級を生み出すことに優れた儒教の方法は多くの社会で受け入れられたのである(第一次産業を芸術表現から排除するということではない)。だが、一方で産業として確立した表現手段は他の競合するまだ確立していないものに対して排他的であり、多くの専門用語、作法を設けてその枠に収まらないものとして排除する。世にある理不尽で不可解な学問分野、芸術分野のの棲み分け、それは利益分配の問題から発生する。老人たち、大人たちが直面しているのは、自らの生きてきた世界の論法の限界であり、末期の姿なのである。

 表現の方法は一定ではない。奇麗事でなく、金を稼げるから芸術、金を稼げないからお遊び、ということはないのである。また、その表現方法が適切でありさえすれば、その内容にもあれはいいがこれは駄目、ということはない。別に人殺しの心情を唄ったって、犯罪にはならない。なぜ性器を映したら一様に犯罪なのか。芸術的表現の衝動を自己の屈託から来る意図的な他者への破壊衝動に転化することが問題なのであり、それはある題材はいいが他は駄目、という論拠にはならない。

 子供たちは、夢を実現する敷居の高さ故に苦しむのではなく、夢を表現する方法を選べないために苦しんでいるのだ。夢を過度に産業化するな。生活の中の夢を迫害するな。表現の千差万別を認めろ。利益のために他者の夢を、自らの夢を殺すな。時代遅れだろうが早すぎようが、自らの夢を恥じるな、他者の夢を軽蔑するな。人は死に、財産も永久ではない。だが唯一芸術の美だけは残り得る。芸術だけが人生が残し得る美しいものだ。理論やシステムは永遠ではない。それは真実に触れていない、芸術ではないからだ。だが、神の概念、神話、物語、理想は死なない。克服されたと宣言されても何度も蘇り、必ず理論やシステムはその引力に引かれて生まれる。それは永遠であり、美であり、芸術だからだ。