君が代と裏声

 政治ニュース「安倍首相「国旗国歌への敬意重要」=教基法改正案、参院で実質審議入り」という記事で国歌斉唱、国旗掲揚の国による強要について批判的な記事を書いたところ、多くのコメントをいただきました。ありがとうございます。

 この問題の中でも「君が代」については、色々な視点論点を含みますので、もう一度はっきりと整理しておきたいと思い、新しい記事を書きます。



 Wikipediaを参考、引用してまとめると、現在の「君が代」を巡っては、以下のような歴史と経緯があります。

・その詞は作者、起源未詳の民謡的性格を持ち、10世紀の古今集にも見られる(多少異同あり)。江戸時代には婚礼の席の祝い歌としても用いられた。

・この時点までの「君」とは、必ずしも天皇のことを指すとは考えられず、恋人、家主、平安の世、などに用い得たと考えられる(江戸時代の使用例もそれを傍証する)。

・「君が代」に曲がつけられ、国歌的性格を持つようになったのは明治2年以降である。

・だが、正式に法律で国歌と定義されたのは1999年「国旗及び国歌に関する法律」が定められてからである。このときの当時の小渕恵三首相は、「法制化にあたり、国旗の掲揚等に関し義務付けをおこなうことは考えておらず、したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならない」と発言した。

・現在では「君」とは天皇(とその治世)のことを指すという解釈が一般的。

・太平洋戦争中も君が代は国歌的に扱われ、戦意高揚、天皇賛美の意味合いを持ったことは事実。

・東京都教育委員会(都教委)は2003年10月、「卒業式での国旗掲揚及び国歌斉唱に関する職務命令」として、「国旗掲揚・国歌斉唱の義務」を各都立高校に通達した。これに違反して処分された教職員によってこの命令の妥当性が裁判に訴えられ、東京地裁で以下のような判決によって原告は勝訴している。

国旗及び国歌が軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことは歴史的事実であり、国旗国歌をよしとしない人も多い

国旗や国歌に反対することも、思想及び良心の自由の範囲内であり十分尊重されるべきで、国旗への起立
やピアノ伴奏を伴った国歌斉唱という都教委の指示に従う義務はない

国旗や国歌は強制されるものではなく、国民に自然と定着させるべきもので、それが学習指導要領の理念だ

国旗への起立や国歌斉唱強制は「不当な支配」であり違反(教育基本法10条1項)であり、都教委のしたことは思想及び良心の自由を侵害した行き過ぎた処分

・2006年11月22日、「自民党舛添要一氏が、一部の学校では国旗掲揚などが行われていないことを「法律違反」と指摘したのに対する答弁。伊吹文明文部科学相は、国は教育委員会に対し要請や指導をするが、現場が従わない場合の権限が無い点を挙げ、「これをどうするか、与野党を超えて、教育の根幹にかかわる問題として議論してほしい」と述べた。(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061122-00000054-jij-pol)」 



 僕は政治的、歴史的経緯を切り離して見れば、「君が代」の詞は美しい響きを持つと思うし、裏声でなければ歌えないことを別にすれば、曲もなかなかきれいだと思います。ですが、ここまで政治的に偏った性格を付与されると、無理です。もう歌えません。

 国を愛するのは当たり前、愛国心を持つもの当たり前という人も多いでしょうが、ここを見ていただければおわかりいただけると思いますが、愛国心には様々なかたち、度合いがあるのに、「愛郷心」からそのように発言されるひとでも、国への「忠誠心」、「国粋主義」に賛同しているような形にされてしまっているのが現状です。

 教育問題、日本語能力の低下、品性、徳目の低下、日本独自の文化の衰退など、何でもかんでも「愛国心の欠如」に結び付けて論じられていますが、そもそも文化や言葉なんてのは移り変わるものです。

 日本家屋、日本語、失われるならそれでも仕方ありません。しかし、それで文化が均一化して独自性がなくなるか?遠い昔のアレクサンドロスカエサル以来、均質に均された文化を与えられ受容し続けてきたヨーロッパを見てください。基本的に言語のルーツ、建築のルーツ、多くの地域で共通しています。ですが、、均質で面白みがないですか?心配しなくても例え日本の公用語がなくなり、伝統文化が絶滅しても地域、民族の独自性はそう簡単に滅びません。

 品性、徳目の低下、年長者を敬う態度のなさ、そんなものいいたてなくても、若い人でも人として最低限やっていいことと悪いことを弁えてるひとは沢山います。儒教的で抑圧的なかつての道義をわざわざ復活させる意味があるんですか?そんなもの窮屈でしょうがないと思います。親を大事に思うのは結構なことです。でも今更、老人ホームに入れるのは孝行が足りないとかいってみても、現実的じゃないですよ。かつての伝統的な日本では、老人遺棄の習慣もありましたよ?過去を美化し過ぎるのは違うんじゃないですかね。本気でそんな黴の生えた徳目を修養すれば現代の問題の多くが解決すると信じているのなら、おめでたいことこの上なし、です。賛成される方々は個々のご家庭でどうぞご勝手に実践されてください。

 モラルを論じるなら、現代の価値観に適合し、将来像までを見越したものを議論すべきです。政治家のいう「モラル」の内容もはっきりしないのに、賛同することなどできません。

 現在日本で流行している「愛国主義」、「国家論」は単なる「国際化」、「情報化」によって既得権益を脅かされた「日本人」の反動形成に過ぎません。政治の舞台でそのような幼稚な態度がまかり通るのは本気で危険なことだと思います。「旧守化」したところで大きな流れを食い止めることなど不可能です。新しい流れのいいところを汲み取り、できるだけいい形で受容していくことを考えるべきです(反動的な規制などもっての他)。今更「強い国家」、「美しい日本」の幻想を強要されることなど子供たちでなくとも甚だ迷惑。国は国民に福祉と安全をもたらすために存在するという基本に立ち返り、それを地域主義ではなく広く世界の一員として実現していくことを考えるべきです。江戸時代以前からの日本人の血を持ち、日本語を話し、国旗、国歌に誇りを持つことなどが国民の条件になどなり得ません。国家はそこに住むひとすべてのためにある。それはいまだ憲法の精神に適合した要請であり、その憲法を前時代的な段階に引き下げることなど許してはいけないし、国歌、国旗を拒否する自由を否定することなど論外です。

 Wikipediaにも引用されていましたが、今上天皇が、「平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」」と発言したという話があります。現状、天皇は、こういった発言をもっと堂々としていくべきだと思います。日本の国家体制が歪な形とはいえ立憲君主制に留まっている以上、本来二重に守られなければならない国民主権の約束事が無視される原因となる、様々な権益(しかし国民全体のものではない)と複雑に結びついた議院内閣の暴走を抑止するには、いまだ強い影響力を持つ天皇に政治的発言を堂々として貰うしかないでしょう。それは昭和天皇靖国発言が出たときの影響力の大きさを見てもわかることです(現行の議員内閣制の問題についてはここが参考になります)。国家体制として、君主制はきちんとした見識を持つ君主を育成できるなら共和制よりも有効な場合もありますし、イギリスのように、王室の発言、行動が積極的に国民の権利拡大に寄与してきた例もあります。現状、日本の民主主義が不完全なかたちに留められている以上、バランスを取るためには天皇がもっと積極的な役割を担うことは必要です。そうでなければ、ただの綺麗な人形としての天皇など不要、今度こそ真剣に天皇制の廃止を議論すべきだと思います。

 この問題を日本教職員組合の左翼的傾向に拠る問題と矮小化し、自らを正当化する政府や推進派の態度は卑怯であり、情報操作を目的としています。これはもっと大きな問題です。国家の理念も現実も無視した暴走をこれ以上許すのは恐ろしいことです。