歴史修正主義の不思議

 例えば南京大虐殺

 中国側の主張している証拠は間違いで、殺された人の数とか規模が異なるとか主張をするのはいいのですが(あくまでも歴史の研究として)、どうして「市民の殺害は市民に化けてゲリラ戦術を狙った兵士がいたために起きた、ある意味不可抗力の犠牲だった」ということになるのでしょう。

 例えば従軍慰安婦問題。

 確かに、慰安婦になったひとのすべてが、いやいやなったわけではなく、お金を稼ぐために自ら志願してなったひともいたでしょう。

 しかし、なぜそれが彼女たちに精神的苦痛や、身体的苦痛がまったくなく、全く問題などなかったかのごとくなるのでしょう。自ら望んできたひとでも、その後ひどい待遇を受けたなら、気持ちが変化することもあり得ることは、まともな想像力があればわかりますよね?

 大体、志願してなったひとがいたとしても、それは小林よしのりなんかが描くように、素晴らしいお仕事だから喜んで日本軍の兵隊さんたちのためになることをしよう、みたいにウキウキしながらやってきますか?

 歴史修正主義は極端すぎます。現実を無視している。まるで中国や韓国側の提出している証拠がすべてウソなら、虐殺も、慰安婦問題もまったくなかった、すべてかゼロか、という問題に転嫁したがっているよう。

 現実的に考えて、戦場での略奪、虐殺、強姦などの犯罪が起こることはほとんど避けられないことですし(情報の発達した現代においてさえ、アメリカ軍はそれを堂々やっています。それとも、野蛮人のアングロサクソンとは違って文化的な日本人は軍規は絶対に守るのだ、とでもいうのでしょうか)、当事者がそれを好き好んで公式の記録に残したがることもありません。そんなことは少し考えればわかるはずです。資料第一の歴史家だって、それくらいは常識でしょう。公的資料になくても、加害者側、被害者側双方の当事者からの証言が多くあるのですから、それも判断材料とするのが当たり前です。公的資料と個人の体験、どちらの捏造が容易かはひとによって意見が異なるでしょうが、少なくとも俺には当時の日本の公的資料に全面の信頼が置けるとは思えませんし、個人の体験はすべてが偽れるほど軽くはありません。正直、当時まともに現場の証拠を集めることすら出来る状況になかった中国側の提出する証拠が間違っていたって、それがナンボのものか、という気がします。当時無差別殺戮が起きたことを認めるか否定するかは、良心の問題ではないでしょうか。その殺した数の違いが問題になるとは思えません。

 従軍慰安婦の問題も、職業的娼婦の是非と占領下での軍隊における現地徴用という事態を意図的にごっちゃにして論じているようにしか思えません。

 歴史修正主義者はヒステリックに<左寄り>のひとびとや中韓の政府を非難しますが、問題を険悪なものにしているのは、かれら自身の尊大な態度ではないでしょうか。

 台湾についても俺は疑問を感じます。日本人が敗れて去った後に来た国民党軍が酷かったために、台湾のひとびとは一般的に日本人にそれほど悪感情を抱いていない、ということになっています。それはいいでしょう。ある意味ありがたいことでもあるでしょう。ですが、それがなぜ台湾のひとびとは日本の<してくれた>ことに感謝し、日本統治時代をいい思い出としている、という風に意訳されてしまうのでしょう。単なる比較問題を、絶対的差異にすり替えてしまっている。日本人にしたって、国民党にしたって、台湾のひとびとに偉そうな態度など取れないのは同じ筈です。『非情城市』という映画をまともに見たことがあれば、そんな能天気なことはいえないのではないでしょうか。

 日中戦争第二次世界大戦は過去の出来事です。ですが、われわれの国が、先祖が、父母が行ったことを自らのエゴから否定するたびに、それは過ぎ去った問題ではなくなります。それは現代に生きる我々の問題となるのです。自らの心を誤魔化すことほど不健全な作業はありません。