恥を知れ

日本は恥の文化、だという。

ホントかよ?と思う。恥は極力隠したい、という方の意味なんかいな。

歴史的事実や、法的正当性の追求は大事だ。だが、一番大事なのは心ではないか?

日本には忘れたい過去がある。お莫迦な妄想に取り憑かれた自称インテリどもが起こした戦争だ。別に正義だ悪だといいたいわけじゃない。ただ、見込みのまったくない大変愚かな行為だった、というだけだ。そして、天皇というただひとりの人間を守るために、その見込みのない戦争に見切りをつけるのが3週間遅れたお蔭で、何十万という人間が死ぬことになったあの戦争だ。プライベート(一兵卒)ではない、一応、敗戦責任を一身に負うべき当時の総大将だ。順番が逆じゃないのかな。

完膚なきまでの敗北だった。ゲームならいい、自分がしおたれるだけだ。だが、現実には日本人だけでなく、数多の隣人たちを巻き添えにしたのだ。

国民はみんな大迷惑を蒙った。だから早く忘れたい。だが、割を食った隣人たちがことあるごとに過去を話題にし、責めるので、痛みを忘れたくても忘れられない。しかも次から次に、金銭的要求までされる。こちらはもう充分弁償は済ませた、というつもりだ。しかも、非難の内容が大袈裟だったり、記憶と食い違ってる気がする。逆切れしたくなるのもわかる。

だが、恥を知る、とはどういうことか。天に対して、ひいてはオノレの心に対して、赤心で向かい合い、偽らないことではないか。隣人たちにはもう60年も前のことなど忘れて、仲良くやって欲しい、自分たちのよさも認めてほしい、なるほど、本音のところだ。じゃあ、原爆落とされたことも、ソ連に裏切られたことも、亡くした家族たちのことも忘れればいい。どのみちもう100年もすれば、クリスマスとかハロウィンみたいに本来の意味など忘れてただのお祭りになる。それができないのなら、少なくともひとりひとりは真摯に相手の非難に向き合うべきではないか。別に彼らだって、本音は金をせびりたくっていつまでも過去にこだわるわけではあるまい。日本人が広島、長崎を思うときと同じ感情だ。加害者のはずのひとびとが、まったく自分たちの痛みを理解していない、しようとすらしない。そういうことが充分に共感できる経験を日本人もしてきたんじゃないのか。アメリカまで出かけていってまで世界に訴えようとした気持ちは、拉致被害者の映画を持っていくのと同じ、已むに已まれぬ思いではないのか。北朝鮮も日本もそれは事実誤認だ、解決済みだ、という。どう違うというのか。

恥を知れ、安倍。恥を知れ、知識人。恥を知れ、マスコミ。恥を知れ、日本。