命の重さ

最近、CSのスーパードラマTVでやってる『エバーウッド』というドラマを毎週見ているのですが、

今日の放送では堕胎に関するエピソードがありました。



あまっちょろい中学生みたいな書き方になってしまいますが、

それを観ていてはじめて自分の中でひとつの問いかけが明確になったのです。



僕らは日々何らかのかたちで他の生き物の命を奪いながら生きているわけです。

でも、殺人事件が起きて、人が殺されたり事故で亡くなったり、動物でも虐待の報道を見たときには、情緒的に「ひどい!」と思うのに、ステーキ食べても牛の命には多分ほとんどの場合思いを馳せることはないし、蚊を蚊取り線香で毒ガス攻撃しても平気。

別にすべての命は平等なのだから区別すべきでない、常に悼みながら生きるべき、というわけではないです。でも、何か僕のの中に「生命」というものに対する一定の見方がないんじゃないかと。

妊娠3ヶ月の胎児も命である、しかし、かれを堕胎する(させる)親がいても彼らを殺人者、犯罪者とみなさないのならば、一旦生まれた人間の命を奪った人間に対しては犯罪者とみなすことが妥当なのか。

難しい問題です。信じる宗教によっても答えは異なるし、文化によっても異なります。ですが、共通しているのは、どのような答えを出すにしろ、生命にある区別を設定しなければならない、ということです。

動物を殺すことをすべて犯罪と見做し、野菜しか食べないとしても、野菜は生命といえないでしょうか?また、逆にもし成人した人間のみを法的に完全な人間とし、完全な権利を有するとすれば、その他のすべてのものは簡単に毀損されてもいい命なのでしょうか?

どちらにせよ、生命体が生きている以上、絶対に避けては通れないのが、守るべき命と守ることができない、ある場合には積極的に奪わなければならない命を区別するということ。

しかし、完全に守ることができない命を無価値、低いものと信じてしまうことは自分に嘘をつくことです。どんな信念を持つ人でも、ある場合には普段価値を認めていない命が失われることに不意に痛みを覚えることがあるはずです。



問題は、そこにあります。見捨てなければならない命に対してどのように対するか。むしろ、宗教はその葛藤を掬うために存在するのでしょう。

僕の考え方では、母親が決断した以上、堕胎を行ってはならないなどということはできません。親として責任を持てない、など色々ないい方があるでしょうが、とにかく、ある状況下において、世間に生まれ出てて来ることができない命、というのはどうしても発生し得るのです。それを親が他者、世間に対して負い目にすることはありませんし、施術する医者もそうです。

ですが、神や仏や宇宙自然森岩、様々ですが、ある対象に対して、自らの心が負った苦しみを告白し、聞いてもらうことは必要なのではないか。それは罪を裁かれるためではなく、自らが苦しみを得た、ということと向き合うためです。

毅然として、守るべき命を見定め、守る努力をし、またその命を守る法や秩序を形成し維持していかなければならない。しかし、守ることができる命よりも多くの場合ずっと多数の守ることができない命、自ら奪わなければならない命に対して、鈍感になっていてはいけないと思うのです。命の宿命として他の命を犠牲にして生きていることを自覚しなければならないし、そのような命が無価値であると自分に対して嘘をついてはならない。神(やその他の名前で呼ばれているもの)は、ことあるごとに自らのそのような立ち位置を確認させてくれる対象です。

別にそれは宗教でなくても構いません。自分が丸裸になって、心を曝け出せる対象であれば。間違えてはいけないのは、それは決して自らを正当化してくれたり期待する答えを与えてくれるものではないということです。

ゴスペルに、「なにかあったらイエスに電話しな」と歌うものがありますが、実際神のような存在を持つということは、自らのひとには話せないどんな痛みも電話できる相手を持つことに喩えても間違いではないと思います。



すべての命を平等に扱うことはできない、ということと、すべての命の重さに軽重はない、ということは、決して矛盾するものではありません。最後まで中学生の感想文風で恥ずかしいのですがw、それにようやく気づくことができたと思います。



文章にすることは難しく、何がいいたいのかわからないものになってしまったかも知れませんが、自分の中で整理する意味もあって書いてみました。