ユメハカナイマース

僕は今回の選挙民主に入れたクチだが、どうもマスコミの報道を見てても、政界の反応も、納得がいかない。この民主勝利も結局は郵政解散のときの雪崩的自民勝利と同質の「お祭り」であり、安倍政権の政策自体が否定されたのではないと見る向きが多い。

確かに「自民へのお灸」的な意味合いで投票したひと、これは相当数いると思う。だが、いわゆる浮動票の大多数がマスコミの意図的な変更報道、つくられたスキャンダルに乗せられたという見方のほうはどうかと思うのだ。

そもそも、きちんと選挙にいったひとをただお祭り騒ぎしたいだけの愚徒とでもいわんばかりなのはお門違いじゃないか。選挙権がありながら選挙に行かなかった4割強のひとたち、このひとたちの大部分については(中には止むを得ない理由のあるひともあるだろうが。期日前投票の制度も本当に事情が許さないひとにはまだまだ利用しがたいと思う)、失礼ながら責められても仕方がない部分があると思う。しかし、きちんと制度に沿って選挙権を行使した人間について他人があれこれと見下してみせることは軽率だろう。選挙会場までいったひとたちには各々それなりの考えがあったのだろうし、それがどんな理由であったって堂々としていていいと思うのだ。

そもそも今回の選挙の結果は、選挙民の判断が、比較される郵政選挙のときよりもずっと率直に反映されたものではないだろうか。

郵政選挙においては、選挙民の判断云々よりも、政党、政治家側が、政権選択選挙としての明確な対立軸を示すことができなかったことが、あの結果をもたらした大きな原因だったと思う。岡田民主は政策面で小泉政権とのはっきりとした差異を打ち出すことができなかった。郵政民営化を巡る自民党内部の抗争という図式が演出されたことと相俟って、自民でも民主でも大して変わらないのでは、という意識を多くのひとが持ったのではないか。かくいう僕自身も、その時点ではよしんば民主が政権を取ったとしても政治が大きく変わるとは考えられなかった(それに勝てないことは事前に予想された)ので、小泉政権への反対票、抑止力と期待して共産党に投票した。

今回の場合、小沢民主はかなりはっきりとこれまでのポリシーを柔軟化して、安倍政権に対してアンチテーゼを打ち出した。特に現政権下で疲弊状態からの回復に成果の上っていない地方を重視し、結果小選挙区で東北四国を全勝、中国九州でも優勢となった。同時にこれまで「改革」の中で槍玉に上げられてきた公務員出身者を多数候補に立て、当選させた。

つまり、政治改革の中で敵視されてきた利権導入、ばらまきの「古い自民」を髣髴とさせる姿勢が勝利につながった、とも分析できよう。

政治改革が進行する中で、党の姿勢を曲げて反動化することは、ただ政権交代だけを目的化し国の将来を考えない行為だ、という意見もあるだろう。

だが、単純に利権=悪、公務員=悪、という図式が成り立つのだろうか。政治家とは、少なくとも地方選出議員ならば多かれ少なかれ地方の利権獲得を期待されているのではないか。利権と一言ではイメージが悪ければ、福祉、安全、繁栄、発言力、活力などといえばいい、こういった住民の声を代表して国政に参加するのが議員議会制民主主義の本来の姿ではないか。

小泉、安倍政権においては、地方のドンと呼ばれるような大物議員が次々と追放されたり落選して、その後を落下傘候補とかチルドレンが占める。確かに長年再選を重ね、既得利権と呼ばれるものとずっぷりと結びついたような議員も多く、弊害は大きかったかも知れない。だが、代わりに登場した地方に地盤を持たず、国会でロボットのように賛成票を投じるだけの議員たちが国の政治制度の本来の姿をより毀損しているとはいえないのだろうか。世代交代は必要だが、新たなひとも地元の選挙民のために働く、という意識を失ってはならない。

鈴木宗男など、疑惑の塊のようにいわれていたが、逮捕起訴され有罪判決を受けながらも衆議院に復活当選している。スキャンダルにまみれた山崎拓もそうだ。例え手法に問題があるとしても、地方は自らに利益をもたらす手腕を持った政治家を望んでいるのだろう。

現在の政治の問題は、きちんと住民に反映されるようなかたちで利権を導入できる、主張できる代議士が活躍できないことだ。議会を軽視し、議論を尽くさず、与党の多くの議員も立場に関わらずただ政党という組織に拘束されて賛成票を投じるしかないような法案がやすやす通ってしまう状態は、非常事態といってもいいのではないか。本当にそれが必要なときもあるかもしれない。だが、国とは、個人、コミュニティ、地方と、積み重なった各々の都合の集合体である。出来る限り広汎に通じる利益を選ぶのは当然であっても、「国」という「民」なしには存在しないはずの概念の都合を上から押し付けることが常態化しては、最早この国の政治制度は有名無実化していることになる。トップダウンのお触れではきめ細かい配慮が失われていくことは、大欠陥法の障害者自立支援法に端的に現れている。ボトムアップの政策工程が持つ、歪になりがちでもなおかつある人間臭さが、性急な「改革」にはまったく感じられない。

また、公務員についても似たことがいえる。例え公務員をすべて解雇したとしても、代わって公共の仕事を担う人間は必ず必要となる。公務員の仕事自体が問題ではないのだ。問題は職業的モラル、教育なのであり、いくら公務員から法人職員へ身分を変えてみても、そこが根本から変わらなければ同じことが繰り返される。その大事な教育に対して、現政権は愛国心や競争の復活といった空疎な面への関心しか持っていない。そのような外面だけを取り繕ったところで何も代わりはしない。重要なのは、これからの時代に公共の福祉とはどのようなものであるのがより望ましいのか、その原理原則問題点を実地の視点から希求、明確化し、公務員として働くひとびとがこの課題に自覚的になることではないのか。

現政権の姿勢は、国の根幹を、地方の軽視、公共の仕事の責任を丸投げすることで揺るがしていることを改革という美辞麗句で胡麻化しているに過ぎないように見える。僕はそのような政権へのアンチテーゼとしての「反動」が、単なる懐古に終わらず、現在を見つめるしっかりとした視点が確立されていくことを期待する。民主党が地方におもねるのでなく、本当に地方が必要としていることを見誤らないのなら、単なる自民政権の行き過ぎへのイエローカードではなく、よりポジティブな結果をもたらし得る。

そして、今回民主党に投票した僕たち選挙民が、自分たちの投票行動にそれぞれの立場から確固とした意図、政治的要望があることを信じるのなら、それは必ず政治に影響し、実現への大きな力となると思う。時に愛がそうであるように、まだ来ていない明日の世界では信じ続ければ嘘や振りが本当になることも充分にありうるのだ。