<床を拭く女>のエロティシズム

ウォン・カーワイ(王家衛)監督の映画、『欲望の翼(阿飛正傳)』(1990)『恋する惑星重慶森林)』(1994)と『天使の涙(堕落天使)』(1995)には、共通して、

<膝をつけて屈み込み四つ這いになり、部屋を掃除する、あるいはベッドの上を片付ける女の臀部を後ろから撮影するシーン>

がある。

このあからさまに、いわゆる性交のバックスタイルを想起させるフェティッシュなアングルは、しかし、おそらくウォン・カーワイの独創に拠るものではなく、映画『存在の耐えられない軽さ(Philip Kaufman"The Unbearable Lightness of Being"(1987))』のシーン、ひいてはその原作小説(Milan Kundera"Nesnesiteln?? lehkost byt??"(1984))の描写に由来するのではないかと思われる。

映画の中で、登場人物トマーシュのセックスフレンドであるサビナは、かれに山高帽を被り山高帽と下着だけのセミヌードで床に置いた姿見の上に四つ這いになるように命じられる。

ここでは、ウォン・カーワイの映画における、女がそれと意識できないかの女の姿態を、背後から男、あるいはカメラマン、観客が一方的に観察するというフェティシズムだけでなく、女が姿見を通して自らの屈服の姿態を観察させられるというエロティシズムの要素が加わっている。姿見がなければ、女は自らに注がれる視線を想像するという間接的な行為への参加となるが、姿見の存在によって、見られている自分の表情を確認する能動的なパースペクティブが生まれる。更にそれは観察者には確かめることのできない、秘密の視点でもある。

この場面は原作のどの描写に由来するのか、探してみたが、完全にそのままの場面は見つからなかった。恐らく原作に貫かれている精神的エロティシズムを映像として再構築したものなのだろうが、このシーンはサビネがトマーシュに書いた手紙の文句を思い出させる。

「あなたと、舞台みたいな自分のアトリエで、愛し合いたいわ。まわりには観客がいて、一歩も近づくことができないの。でも私たちから目を離すことはできないような・・・・」(千野栄一集英社文庫版80頁)

この手紙によって、トマーシュの妻テレザは悪夢に悩まされ、同時に自らがトマーシュのポリガミー(一夫多妻生活)のアルターエゴ(第二の自己)になるというオブセッションを抱くようになる。そしてひとりでサビネのアトリエを訪れ、かの女のカメラでサビネと互いのヌードを撮る。

カメラは、対象をレイプする本来的な性質を持っている。アントニオ・タブッキの『インド夜想曲(Antonio Tabucchi "Notturno indiano"(1984))』に次のような一節があった。

「僕はサッカー場ほどの広さがある宏壮なロビーのまんなかのソファにすわって、この豪華な景観を眺めることにした。見るという純粋行為のなかには、かならずサディズムがある、と言ったのは誰だったろうか。思い出そうとしたが、名がうかばないままに、この言葉のなかにはなにか真実があるのを僕は感じていた。それで、僕はますます貪欲にあたりを眺めたが、自分本人はどこかわからないが他の場所にいて、見ているのは二つの目にすぎないという意識がつめたく冴えていた。」(須賀敦子白水Uブックス版45-6頁)

自らの眼をカメラとして意識することには、機械の冷酷さがある。だが、実際にはそこに視られている側の視られているという意識、かの女の第二の眼による視線が加わることによって、観察者は同時に被観察者ともなり、双方向的なエロティシズムが成立する。それは文字通り、視るという純粋行為を不純行為に転化する。背後から眼で犯す男は、同時に女の意識に犯され、見えざる姿見に映る自らの姿を見せつけられていることになる。ここに物理的な姿見を女の下に配置することで、女の側にも能動的な<視る>というエロスを持たせたカウフマンの演出は卓越したものといえよう。





『存在の耐えられない軽さ』トレイラー
http://jp.youtube.com/watch?v=Cn5EIGlzbqY