四月の雪

ジョイサウンド入曲記念w。

音楽を聴いてるとよく感じるのがダサさ。基本、特に大衆音楽(ポップミュージック)はダサさと切っては切れない関係にあると思う。

音楽の知識がないのでダサさという感覚を説明するのがなかなか難しいのだが、要するに節回しのダサさ、メジャーコードのダサさということなのではないだろうかと感じる。

メジャーコード、マイナーコードというものがいまいちよくわかっていないのでこの言葉を使わずに説明すると、大衆音楽的節回しというのは、カタルシスが得られやすい。要は、サビでパーンと弾けるような快感が得られのだが、同時にそれは幼稚というか、民謡的な(どっちなのかわからない)ダサさ、ワンパターンさでもある。その
結構ガチガチの制約の中でどう工夫を凝らして、狙ってダサかっこよさを出すか、隙間を狙っていくというのが大衆音楽がずっと取り組んできた課題であり、日本だとユーミンとかサザンがそういうのを得意にしていたと思う。

さて、この「四月の雪」という曲だが、この曲にはそういったダサさが感じられない。前置きが長くなったが、そのことについて語りたい。

この曲の発表当時、甲斐よしひろは、この曲はボブ・ディラン的なマイナーコード進行である、というようなことを語っていた。こういうコード進行が好きなんだけど、ようやく掴んだ、自分のものにした、と。そして、KAIFIVE最大のヒット曲となった「風の中の火のように」も、この曲と同じコード進行である、と語っていた。

それを踏まえて考えてみると、確かに「四月の雪」と「風の中の火のように」は似ている気がする。「風の中の火のように」はちょっと<大衆受け>するお化粧が施されている気がするが、基本的には地味な曲である(ちなみにライヴでは結構変えている気がする。半音上げて演奏しているというか、かなりブライトな感触だ)。ボブ・ディランの「風に吹かれて」なんかと比べると、声とか装飾を省くと、やっぱりよく似ている。そして地味である。

そうなのだ、地味なのである。なぜこういう曲(マイナーコード?)が少ないのか、というと、地味なのである。歌ってみるとわかるが、サビで無理やり盛り上げることができないので、プレッシャーを感じる(聴いてる人に対しても自分に対しても)。パンッと圧迫的に提示するタイプではないので、ヴォーカルにその曲に値する表現力、巧さがないと聴き手に伝わらないのだ。難しい。しかし、ある意味では挑戦し甲斐がありそうである(デキる方にはw)。

甲斐よしひろの曲は、ただ歌っていると充分なカタルシスがないような曲が多いし、カラオケ向きではない気がする。曲によっては古さも否めないのかも知れない。しかし、この「四月の雪」のように、作り手の感覚の古さで片付けては視野が狭すぎるのではないかと思うような曲もある。

実際、ダサかっこよさを求めるギリギリの戦いがポップミュージックの最前線であることは間違いないとだろうが、そればかりを追求してきた結果が昨今の恐竜的進化で一般人には通用しにくくなってしまった、ポップミュージックなのにポップではなくなってしまったという皮肉が、日本の音楽シーンにはあると思う。

また、カラオケを意識しすぎた曲が増えた結果、大衆音楽、誰もが歌うことができる歌の範囲が狭まり、私たちの歌というもの自体が貧しくなってしまっている気がする。

カラオケというフォーマット自体に限界はあるのだろう。楽器の弾き語りに比べると、声を出すことでしか演じ手がカタルシスを生むことができないので、結果的にはアマチュアに可能な表現の幅は狭まってしまう。かつてのようにギター弾き語りやバンドに挑戦しなくても気軽に歌を歌える代わりに、そういうったフォーマットに適したフォークやロックンロールのような形態の歌が人口に膾炙することは少なくなってしまった。

カラオケ的でない歌をカラオケで歌うということは、ロックンローラーが歌一本で勝負するのとある意味では似ている。声だけでどこまで、何を表現できるのか。素晴らしい表現力、神々しい歌とか、言葉で語るだけなら簡単である。だが、実際には、歌とは発声に過ぎない。文章にしろ絵画にしろ表現というものは並べてそうであるが、ミューズの存在を語ることは容易いが、実際に感動させる表現というものが技術によって可能になるのか。そこまで高められるほど声や文章を技術化することができるのか(複雑系技術ではない芸術においては、技術的に評点をつけられる範囲外が広すぎる)。技術の先というものを本当に獲得することができるのか?そういった表現の限界と向き合うことになる。