甲斐バンド 全曲レビュー 『らいむらいと』まとめ その2 ~「ポップコーンをほおばって」と「バス通り」




甲斐よしひろは、バンド人間ではない。

と、思う。

マチュア時代の経歴もそうだが、群れるのを嫌う主義からも、音楽的に人間関係のしがらみで妥協するのを嫌ってきたことが伺える。バンドやろうぜ!的な発想は、実はずっと後のKAI FIVE時代に唯一見られたもので、本格的なロックンロールバンドの匂いがするアルバムもKAI FIVEの『幻惑されて』と『ラブ・ジャック』しかない。

そもそも、甲斐よしひろは、常にメロディー優先で曲をつくっていて、曲が先にあってアレンジで化けさせる、という根本姿勢を持っていると思う。逆にいうとアルバムのアレンジ、コンセプトが最重要課題なのだ。曲は材料であり、時には原曲の意味合いをがらりと変えてしまうことも厭わない。だからメンバーに目標値、理想形に近づくための力量を求める。セッションからはじまるような曲作りは嫌う。

だから、甲斐よしひろの曲はどんなに洋楽っぽい匂いがあっても、必ずきちんと練りこまれたメロディーがあり、いわゆるサビがある。そのセッションでなければその曲は生まれ得なかったというような偶発性がない。そこが時に物足りないところでもあるのだが、アルバム毎のコンセプト、色合いの統一性、テンションというのはなかなか他のアーティストにはないものだと思う。

だから、バンドでプロデビューしたいと考えたときも、はじめからバンドの持つ偶発的なマジックに賭けるようなつもりは毛頭なかっただろう。長時間一緒に活動することで得られるスキルの蓄積とコンセプトの共有というメリットに、とりあえずテクニック的には上でも継続的理解の向上が期待できないスタジオミュージシャンをバックにすることより、中長期的にはメリットがあると判断したのだろう。だから、メンバーも個性の強さよりも応用力重視で集められたように思える。おそらくリンドンで先にデビューしていたという事情がなくても、プレイの個性が強い田中一郎はこの時点では甲斐バンドには合わなかっただろうと思える。

こう書くと結局単なるバックバンドのようだが、それも違うだろう。『らいむらいと』の曲を見ればわかるように、甲斐よしひろの書く詞はソロ時代のものと甲斐バンド向けに書いたものではかなり意識が異なる。作詞家としては、甲斐バンドでの甲斐よしひろはオリジナリティーを放棄しているといってもいい。甲斐バンドにおいては詞のフレーズはギターのフレーズ、ドラムのパターンと同じ次元で扱われているように思える。要するにその曲の世界観を構築するためのパーツである。

サウンド面では、甲斐バンドは当初から目指す甲斐バンドサウンドのイメージを持っていたことは、「バス通り」のレゲエっぽい癖のあるアレンジを聴けばわかる。「裏切りの街角」でも同傾向のリズムが用いられていることからも、おそらく、甲斐バンドはこの<癖>をバンドの看板、代名詞として印象付けたかったのではないかと思う。デビュー曲が「ポップコーンをほおばって」ではなく、「バス通り」となったのは、「ポップコーンをほおばって」がこのサウンドに合わなかったからではないだろうか。だが、この時点では恐らく歌詞に関してはソロ時代の方向性を大きく変えるつもりはなかったように思える。

だが、甲斐バンドはフォークとは一線を画すサウンドにもかかわらず、哀愁のメロディーと学生らしい歌詞のために、アイドル・フォーク的受け止められ方をしてしまった。

おそらくここから甲斐よしひろは本来自らの持ち味として評価されることも多かった歌詞のオリジナリティ、純文学的作家性を封印し、飽くまでも曲の世界に最適化した歌詞を書いていこうと腹を括ったのではないか。

はっきりいうと、甲斐バンドの歌詞は洋楽の歌詞の引き写し、コラージュのようなものがほとんどである。だが、にもかかわらずその歌詞は見事に曲に合っている。以前、僕は甲斐よしひろの歌詞を、シェークスピア役者的な、メソードの意識で書かれたものだと書いたことがある。個人の経験を読み込んでいるとか、そういう次元ではない、どんな手順を辿ろうとも、役に没入し、なりきる。そういったアクター的才能を甲斐よしひろは持っていると思う。そして、シェイクスピア役者が日本語で日本のシェイクスピア劇を演じ、本質を日本の空気の中で再構成して現出ようとするように、洋楽の歌詞もまたその音楽世界を構成する一要素であると捉え、日本語ロックとして見事にそれを再構成した。こうした日本語ロックの解法を確率したことは甲斐よしひろの大きな功績であるし、よく洋楽好きが放言するようなパクリ、模倣で済ましていいものではないと思う。

このように、甲斐よしひろはソロ時代の持ち味を放棄してまで、バンドサウンドに貢献しようとしているのだから、いわば彼自身も甲斐バンドというバンドを成立させるためのピースになりきっているのであり、バンドメンバーは甲斐よしひろに奉仕しているのではなく、あえていえばバンド自体に一心不乱の奉仕を求められたのだ。だからこそ甲斐よしひろが傍目にはワンマンに見える強引な引っ張り方で遮二無二メンバーに要求を出し続けても、離脱者は出てもバンドの崩壊には繋がらなかったのだろう。もしその実態が甲斐のソロプロジェクトであったとすれば、12年もの間バンドが続くはずがない。

「ポップコーンをほおばって」のふたつのヴァージョンは、ソロとバンドにおける意識の違いがわかる好素材にもなっている。

原曲ヴァージョンの詞を聴くと、詩としてはバンドヴァージョンの重要なフレーズを省略した詞よりも優れているように思える。バンドバージョンはサウンドに合うように詞を大胆に取捨、改変、短縮してあり、原曲を知ってからだとまったく意味が通らなくなっているとはいわないまでも、雰囲気が変わってきてしまっている。このようなアレンジ優先の改変は、後の作品「渇いた街」でも確認することが出来る。

純文学小説家のような作品ではなく、映画的なエンターテインメント作品をつくり上げるためのチームとして転がりだした甲斐バンドの画期として、「バス通り」、「ポップコーンをほおばって」という曲は象徴的意味合いを持っているのではないだろうか。


余談だが、甲斐よしひろ萩尾望都は、よくその文学的作家性を評価されるが、その見解は半ば間違いで、実際には視覚的、映像的にはじめから作品を構想しているという点で似通っていると思う。意味性よりも<絵(いわるゆる「絵になる、ならない」の絵)>なんだよね。だから、この二人がお互いのファンなのもわかる気がする。