好き嫌い

子供の頃、秀吉が嫌いだった。藤吉郎秀吉ね。

今は家康の方が嫌いだし、どうして秀吉が嫌いになったのか忘れていたが、サッカー協会に憤慨していて、憤慨ついでに思い出しました。

歴史マンガとかには必ず取り上げられているあのエピソード、あの信長の草履を温めるやつ、あれが嫌い、というか納得いかなかった(史実かどーか知らないけど)。柴田勝家なんかが、秀吉はおべっかが上手いだけ、と嫌っていたとかよくいわれますが(これも史実かは措いといて)、確かに同じ立場だったら僕もそう思いそう。

大体、このエピソードに限らず、支配者とか指導者、経営者は<気の利いた部下>を好む傾向がありますが、勝家なんかは初めは信長の弟を支持して敵対していたけど、帰服してからの槍働きは素晴らしくて、長らく信長政権では実績No.1という風に書かれる人物でしょう?そこで、いや、この家中での立場を楽に良くしたかったら、お前もうちょっと殿の好みを考えて気を利かさんとね~、みたいな展開になったら納得いかないと思う。何か結果出すだけ損じゃね?みたいな。

いや、秀吉さんとか勝家さんとかの個別の例が、ということじゃなくて、ですね。ゴマすって、コネ通しといたもん勝ちよ、みたいなのがどーも苦手だし、性に合わない、そういうことです。別に全ては実力本位であるべきだ!ってことでなくて、まぁ、組織の上下関係なんて、いってしまえば単なる役割分担じゃないですか、本当は。別に社長や王様だからって何でも可能にできる神様じゃないわけで。王様が白を黒といったからって、実際にはそうなるわけじゃない。でも、権力は仮に与えられたもの、仮節、錫杖に過ぎないにも関わらず、ひとに、我侭が通るという錯覚を起こさせてしまう。

これも史実ではなく、一般的イメージに基づいたお話ですが。秀吉みたいな人間は、確かに組織にあってはプラスになる存在でしょう。上の欲することを理解し実行でき、部下にもキメ細やかな配慮ができる。しかし、同じように上の覚えがめでたくとも、石田三成のように、実は現場での評判がはなはだ悪い人間もいる(あくまでも史実の石田さんのお話ではありません)。一方で現場ではいい効果を与えられても、どうも上と馬が合わないひともいるわけです。本来組織の長とは、そういった多様な個の効果を考えながらうまく配置を決めて、組織の方向性を考えていかなければならない。

大体カイゼンとかさ~~~。上手いこといったって人間のやることなんだから、「今日はありません。帰りましょう」が通じないなら、そのうち堂々巡り、右のものを左に、の、<ためにする議論>になっちゃうに決まってるじゃん。アホかって。そんなもんより早く帰ってアフターを楽しみたいよ、って人間が許されなくて、上司に褒められることが生きがいにできるようなタイプしか生き残れないようじゃ、マイナスの方が大きいと思いますけど。

そもそも資本という考え方自体が間違っていると思う。資本を出している、資本を持っている人間が無条件に偉い、という勘違いを通してしまえる現在の通貨は実際の<価値>というものにまったく見合っていないですね。大体食糧含めたモノは捨てるほどつくれてるのに、介護職の人間が碌に食っていけないというような通貨基準はおかしいです。通貨というモノを早く本来の個人的に好き嫌いに拠らない客観的指標として再定義しないといけないと思う。