マスゴミ、マスゴミなどというけれど

ネットの方がよっぽど、あまりにも恣意的なミスリードへの誘導を企てて跳梁跋扈する連中や、それをあまりにも簡単に真に受けてしまうひとが多い様子で辟易する。

というか、何かそれすらもあまりにも低い次元で終始してないか?マスコミの方が余程高度だよ。

竹島やら在日韓国人やら天皇やら原発やら軍隊やら売国民主やら、まぁいいけどさあ・・・・。何でもそれに引き付けててしか語れないってのはあまりにも単純すぎやしないか?

ネットってのは、もっといろんな見方や議論の切り口が生まれるからいいんじゃないのか?

別に未成熟でも浅くても大雑把でも荒削りでもいい、そのひとの生に近いところから生まれる発言がネットでは貴重なんじゃないだろうか。何か最近それとは逆に、金太郎飴みたいに判で押したような同じような見方、考え方にばかりお目にかかるようになって、薄気味悪くすら感じる。2ちゃんねるが衰退してそういうのは減るかと思ったけど、寧ろTwitterニコニコ動画あたりの<つぶやき>文化を通じて拡散、更なる低次元化していっているような気がする。

僕はそういった<つぶやき>文化があまりにも主流化することに疑問を持つ。ネット上の文章の大半は流し読み、斜め読みされているというが、それでもしっかり書かれた文章であれば、気になる部分に立ち戻って精読し、その書き手の真意をよりはっきり理解したり、事実をより精確に把握することができる。しかし、つぶやきにはアオリしか存在せず、その立ち戻って精読するべき部分がそもそも存在しない場合が多い。

人の思考法とはそもそも断定的に成されるのではなく、「~~~だと考える、しかし、~~~という面もある」、「~~~~であるのが望ましい、だが、~~~という可能性もあるだろう」、というような、様々な可能性を顧慮しながら成されるのが正道だと思う。しかし、<つぶやき>ですべてが完結してしまうと、そういった方法が機能しない。すべての発言があたかも断定的意見であるかのように単純化され、単純化された口喧嘩が発生する。まったく無益なことではないか。これでは、両論あるがこちらがより妥当ではないかそうではないのか、という普通の議論をする能力が衰えてしまうのではないか。

そうした結果、アオリ、コピペとして特化した在日だ~~~、売国だ~~~というようなタワゴトが氾濫し、それが無批判に多くのひとに植えつけられていってしまっているのではないかと思える。

僕もそういったタワゴトに嫌悪感を覚えるあまり、挑発的な書き方をしてしまうことが多いのは自覚しているし、その割には本格的にそういった連中と論戦できるような資質も時間もないし<論客>になりたい気もしないことも自覚している。まぁだからといって口を閉ざす必要はビタイチないと思っているが、本当に興味があることを書くのに支障が出るのも嫌だし、最近はそういう方面にはやたらに首を突っ込まないように気を付けて書くようにしてきたのだが、それにしてもヤフーブログの人気ブログの上位にアホくさい右翼ブログが常連でいるような状況にはどうにもムズ痒くなってくる。

映像マスコミは少なくとも映像と音声があるから、報道している現場がどうであれ、情報資源(ソース)としては莫大な量を内包している。例えどんなに恣意的に捻じ曲げて報道しようとしたとしても、どうしても漏れ伝わってくるものがあるから違和感として伝わる。しかし、恣意的に切り取った<つぶやき>は、能動的にその外にある情報資源を当たろうとする習慣がなければ、違和感を自覚することもないままイメージとして蓄積され、いつの間にか自分自身の考えたことのように錯覚してしまう危険性すらあるのではないだろうか。ネットで政治的意識・国家意識に<目覚めた>ってひともいっぱいいるみたいだが、そういうことは能動的に自分で情報を切り分けて判断する習慣をつけてからいうべきではないだろうか。そうじゃなきゃそういうことに興味ないってひとと同じどころかもっと悪いということに気付いてほしい。