金がある、という状態の不自然さ

昨夜世界の子供がSOS!THE★仕事人バンク マチャアキJAPANというTV番組を観ていたんですが。
 
ネパールの村、井戸掘りの技術も、炭焼きの技術もないのに、人々はTシャツジーンズ姿、近くの町に鉄工所はある。ホントかよ、と思わされるような風景ですが、こういったアンバランスが世界の現実なのかとも思えたり。
 
しかし、いつも思うことですが、彼らには少なくとも生きるために、食っていくためにやるべきことがある。身を粉にして水汲みをし、家畜を育て、農作業をし、薪を集める。状況の改善は望めないとしても、適応し、生存のために戦い続けることができる。それ以外の選択の余裕もないともいえるが、日々成すべきことは明快だ。行為と結果の関連は必然性に担保される。
 
しかし、日本、所謂文明社会、都会の現実はどうか。金を得ることができなければ、そのプロセスから脱落すればやることがない。いや、やれることがない。怠惰を選ぶわけではない、否応なく怠惰に落とされるのだ。
 
金がある、いい換えるなら、通貨が一義的にすべてを左右するという状況。ここでは本来金の背景として存在しているはずの物質資源、人的資源、知的資源が正しく位置づけられない。まったくのランダムと思えるような選択によってつけられた値札によって、不自然さが発生する。そこにおいて引き上げられるかあるいははじき出されるかどうかもほとんどランダムといっていい偶然性が支配する。
 
んなこたぁない、生存を担保するのは技術と経験とやる気だ、と反論されるかも知れない。それは負け犬の思考だよと。確かに認知の仕方によって選択肢とは広がりもし狭まりもすることも生存活動の一側面としてあるだろう。しかし、そういう気合の問題は別として、技術や経験が生存の条件であるということはあり得ない。別に若いうちに技術や経験を蓄積していなくても資源に直接アクセスする術があれば生存のためにストラッグルは可能だろう。我々は通貨の利便性の最大化と引き換えに資源にアクセスすることを制限されているのだともいえる。