ゲーム的ルールの法治への拡大の是非

何か無意味に仰々しい云い回しのタイトルになっちゃったな・・・・(><。
 
え~と、今朝夢を見まして、それが最近ずっと考えている、僕の感覚的には幼稚でとんでもなく思える法律や条例が現実に施行されてしまう不条理に対する、ある視点のヒントになるように感じました。で、そのことをちょっと書きたいと思います。こういう英語論文的冒頭まとめの書き方はやっぱ苦手だな(^^;。本文はいつもの日記風に。
 
 
今朝、早めに目が覚めて二度寝しているときに、夢を見ました。二度寝の夢は厳密には夢じゃない気もしますが、まぁとにかく何か脳内映像的な(^^;。
 
ヨーロッパ近世風の世界。二つの対立する勢力の戦場。マスケッター、銃士風の騎兵たちが対峙している。彼らの戦争はまず儀式的な始まり方をする。騎兵たちはまず銃を点に向けて一斉に発砲し、それが開戦の合図となる。次に、フェンシングのフルーレ風の剣を一斉に抜き、それを構えて合図と共に互いに騎馬で一直線に反対側まで駆け抜ける。その際に討ち取られた、あるいは落馬した数がまずは緒戦に於けるポイント、得点的なもの、優勢か不利かを決めるパラメータとなる(余談1)。
 
で、まぁ、目が覚めてぼーっ、と食卓に座って思い出しているうちに、これは僕が最近覚えている胸のざわめきに夢がひとつの示唆を与えたのではないかと思えてきたのです。
 
胸騒ぎ、というよりももっとはっきりとした不安感。3月11日を契機として顕在化した諸々の事象、原発問題も勿論そうですが、別けても石原慎太郎の再選、ネット規制法案、橋下徹の一部教職員吊るし上げ条例といった反動的な動き。反動とかいったらレッテル貼られるかな。不当なるものがまかり通る不条理感とでも云い換えるか。個人的にもそういった不条理感を最近味わったこともあり、居ても立っても居られない気分があるのです(*余談2)。
 
はっきり云い切ってしまうと、石原慎太郎橋下徹の多くの主張や独断専行する内容は、幼稚です。何故なら、彼らの主張は「聖母マリアは女である。故に私は聖母マリアである」的に三段論法の中抜きをしているものだから。AはBである。BはCである。そしてAはCであるといえることもあるが、但しAは直接Cである訳ではないので、AはCであるとはいえない場合もある。これが正常な論の進め方です。だが、彼らは感情を正当化するために前提を拵える。こういう輩をヒットラー的と呼ぶのに差支えはないと思います。
 
僕はこんな幼稚な人間は、本来議論の場に上る資格すら有しないと思います。だが、明確にその資格を規定することは難しい。夢は、それに対する一つの解決法を示唆しているのではないか。
 
世の中は、公理を無視して大声を出し、腕力で押し切ろうとする人間に対して無力になりがちです。それは何故か。ッチェスや将棋、あるいはスポーツのゲームのような、明確かつシンプルなルールの下に動かないからではないでしょうか。政治の世界を将棋と例えれば、自分だけ歩を一つ進めるだけで成金にできるという俺様ルールを勝手に拵えるような石原や橋下はそもそもゲームに参加する資格を有しません。このように、シンプルかつ強力な取り決めの下で物事を進める解決策もあるのではないか。
 
無論、これは現実的には思えません。全くの不心得者だけでなく、恣意的に推定可能なそうでない者も排除してしまえる可能性が高いですし、そもそも偏った考え方や価値観に拠らず、万人に通用するようなシンプルなルールを策定することがまず不可能に思えます。それこそ神のような誤謬なき存在の規定したルールでなければ正当ですべての人が受け入れるようなものにはならないというジレンマが存在するのです。これがよりあらまほしき行き方だとすると、宗教統制が最上級の統治手段であるという逆説的結論を受け入れざるを得ません(余談3)。
 
ただ、近代以降の憲法というものはそもそもこの万人に通用するルールの規定というのに近い発想を持っている事も確かだと思います。それをもってしても度し難い不心得者の台頭とそれによる災禍。これを防止するためのより思い切った解釈、ざっくりとしたルールの策定が可能かどうか。これは現代の大きな課題、現代を切り取る重要な視点の一つでもあるように思えます。
 
 
*余談1
後から補った僕の解釈の部分もありますが、ざっとこんな感じです。勿論夢なのでこういう概観的な感じではなくて、僕はその騎兵の中の一人で、事の成り行きを、緊張と恐怖を感じながら体験しつつ、その中でどうしてこんな流れになっているんだろう、と想像している訳ですね。という訳で精確にはこの解釈は夢の中の僕の個人的夢の解釈なんですが・・・・。この解釈は寧ろ戦国以前の武士の戦争的な解釈なので、ヨーロッパ人っぽい夢の中の彼らには別の見方があるのかも知れません。話がメタな感じで訳わかんなくなってくるので、まぁその辺は措いときましょう(^^;。
 
*余談2
そんな胸のざわめきに追い立てられるように、そういった不当に対する批判を書くことが多くなりました。本当はそんなのは僕には向いていないと思うし、実際最近までは出来るだけ書くのを控えてきたのですが、已むに已まれずという感じすらあって。それでもこのブログはそういった発言に相応しい場ではない気もして、Twitterで発言するようにしたりもしていたのですが、Twitterにしても一度に書ける文字数の制限など、今回のような文章には不向きな感じもします。で、今回はブログにアップしている訳ですが。
僕はウェブ上の人格については別に複数持つ必要を個人的には特に感じませんし、最近は今利用しているYahooブログ、mixiTwitterは、主に読んでくれたらな、という対象の人を想定して相応しいサービスを使い分けるようにし、同時に相互のサービスに記事のアップを通知する機能も積極的に利用するようにしてきました。
ただ、Twitterの場合はやはり僕のような人間には多くのツィートを費やさないと書きたいことを全部書ききれない。そうするとヤフーのマイページの通知欄に僕の長文のツィートが連投でずらりと並んだりする訳で。しかも@のツィートも表示されるので、見た人には訳が分からないだろうし、やっぱり異様なんじゃないかと。
そんなこんなでもっといい方法がないかと模索中です。
 
余談3
ただ、僕は直線的進化論者ではなく、独裁や専制君主制が民主主義や元老院統制の欠陥を克服する手段として採用されたことからも、これらが民主主義よりも必ずしも劣るもの、悪しきものとは考えていません。宗教統治も同様です。ただ、自己判断を含め、それに優劣をつける判断に疑問があります。