読書ノート フランソワ・デロッシュ著 小松優太訳『コーラン;構造・教義・伝承(文庫クセジュ)』白水社(2009)

フランソワ・デロッシュ著 小松優太訳『コーラン;構造・教義・伝承(文庫クセジュ)』白水社(2009)

 

 文献学としてのコーランクルアーン)研究史の概説的な側面もある本だが、文献学に概説が馴染むものなのかなあ、という気もなんだかする。文庫クセジュらしい、大講義室でおじいさんの教授がぶつぶつ言いながら講義してるのを聴いてる感じで、「ふむふむ、そういう研究状況なのね」と、ある意味で感情移入や自分に向き合うことを迫られず他人事として心地よく読める。まあ自分の研究テーマについての必読書がこれだったらついていけず追い詰められて泣きそうになると思うが。

 そもそもクルアーンを呼んでいないとどこの箇所のことを指しているのかわからなかったりする(そもそも読んどけ俺)。中田考訳のクルアーン欲しい。

 

 以下、今後クルアーン読んだときに思い出せるようにメモ。

 

 

ある節の別のある節による廃止

 コーラン二章一〇六「我らがアーヤを廃止したらすぐ、もしくは我らがそれを許可したらすぐ、我らは他の、より優れた同種のものと置き換えるのである」は、ある節を別のある節が廃止し得ることを定めていると解釈されている。例えば、二章二一九「彼らは汝にワインと賭博に関して質問している。言え。『それらは両者とも、人間にとって大きな罪と利点を有している。しかしそこにある罪は有用性よりもはるかに大きいのだ』」、五章九〇「ワイン、賭博、聖石、占いの言葉は、唾棄すべきことがらであり、悪魔の所業である。それらを避けよ」。一六章一〇六はこれらと対立した教え「汝らは、うっとりするような飲み物と、椰子や葡萄の素晴らしい果実を再び手に入れる」。(p.38)

 ムスリムの伝承はここにおいて、アーヤという言葉に「節」の意味を与え、このテキストにおいて食い違っている文章を切断する手段を提供している。廃止したものと廃止されたものの教義の基礎としたのである。先ほどの例において、五章のものは、二章二一九を廃止しており、それ自体が一六章六七の代わりとなった。(後略)(pp.38-9)

 つまり、

二章二一九「彼らは汝にワインと賭博に関して質問している。言え。『それらは両者とも、人間にとって大きな罪と利点を有している。しかしそこにある罪は有用性よりもはるかに大きいのだ』」

一六章一〇六「汝らは、うっとりするような飲み物と、椰子や葡萄の素晴らしい果実を再び手に入れる」

五章九〇「ワイン、賭博、聖石、占いの言葉は、唾棄すべきことがらであり、悪魔の所業である。それらを避けよ」

 となり、新しい教えが古い教えを廃止(上書き?)しており、ムスリムが守るべき教えは五章九〇「ワイン、賭博、聖石、占いの言葉は、唾棄すべきことがらであり、悪魔の所業である。それらを避けよ」である、ということになるのだろうか。

 同じように、「剣について」という特殊な説はより古い一二四を九章五が廃止したという(p.39)*1

 

 

神の名前

 「アッラー(Al lāh)」は語源学的には「神、神的なもの」を意味する単語の前にアラビア語の定冠詞アル(al-)がついたもの。古代アラビア半島に於いてはその女性形「ラート(Lāt)もしくはアッラート(Al lāt)が知られていた。「アッラー」はイスラーム以前の使われ方ではメッカの主神を意味した。(p.55)

(…)ムハンマドの同時代人たちにとって、それは総称的な呼称を復活させることであっただろうし、伝統的な万神殿を信じていた者たちの周りにまず動揺を残すようなものであっただろう。

  一方、ムハンマドと彼の弟子たちにとっては、アッラーは何よりもはっきりと神を指しており、同時に唯一であり真実の名前を欠いた「神」を指していた。

 ときにはそれを指し示すのに他の呼称も使用された。ラッブ(Rabb、主人の意)や、専門家によってイスラーム以前のアラビア半島のイエメンで知られていた神の名(アラム語起源ではあるが)に関連づけられたアル・ラフマーン(al-Raḥmān )は、むしろメッカ期の文章に使用されている。もっとも、ほとんどすべての章の冒頭に見られる決まり文句バスマラ(ビスミッラーヒ・ッラフマーニ・ッラヒーミ)にそれが現れているということは、ある問題を提起する。人びとは、ッラフマーニとッラヒーミが同一の次元の二つの形容詞なのか、それとも一つめのもの―――これは名詞でもありうる―――がここにおいては固有名詞としての価値を持ち、ムスリムの伝統的な解釈によって形容詞のかたちに省略され、「慈悲深き慈悲あまねき神の名において」という意味になる前の、その古代の神聖を取り戻しているのかという問題を議論した。(pp.55-6)

 「慈悲深き慈悲あまねき神の名において」は本来、「慈悲深き神ッラヒーミの名において」あるいは「慈悲あまねき神ッラフマーニの名において」の意味であった可能性があるということだろうか。

 のちに、「美名」という表現から着想を得ることによって(たとえば、七章一八〇*2、もしくは一七章一一〇*3を見よ)、ムスリムコーランに見られる九九の神聖な名前―――あるものはそのままのかたちで、またあるものは似たかたちで―――のさまざまな一群を作り上げた。実際のところは、神聖な性質の一群を構成しているのではなく、これらの形容詞(「美名」)は神聖な本質を定義することに貢献している。(…)(p.56)

  ヴァルホッルにおけるヴァルキュリア表象のクルアーンにおけるフーリ(天女)との類似など、北欧の<異教>がイスラームに影響を受けている可能性も指摘されているが(詰り、ヴァルキュリャの一般的な表象に対して、ヴァルホッルにおけるヴァルキュリャ表象は異質であり、外来のものである可能性)、オゥジンの数多くの異名についてもアッラーの美名との共通点を指摘する文献があった気がする(曖昧)。

 

 

最後の審判とあの世 

 死者の生への蘇りが―――それは魂の不死性の理論を伴っているわけではない―――神のために戦って埋葬された 人びとを除くすべての人間に訪れる。ある節によれば、彼らは実は生きており、したがって一般的運命の例外となっているようである。(…)(p.61)

  天国(ジャンナ、庭の意)は、豊富に水があることによって特徴づけられている。たとえば「そこに小川が流れる庭」であり(九章一〇〇*4)、そしてそこは閉ざされており、その門は善人以外が入ることのできないように守られている。その日陰のもとでは、善人が平和を見出している(一三章二三*5)。彼らの欲求は、風味の良い食事や(五二章二二*6)味の良い飲み物、つまり決して酔うことのない純粋なワイン(三七章四五~四七*7)を飲み食いすることによって満たされる。瞳の大きな若い処女たち、そしてフーリ〔コーランに出てくる天女〕たちが選ばれた伴侶となる(四四章五四*8)一方、若者たちが杯を運んでくる。善人たちは絹の着物や高価な装飾物を身に付けている。ムハンマドの聴衆が目にすることのできる具体的な快楽と比較するような天国における喜びについては、おおよその描写しかない。なぜなら「誰も、私が(信者のために)彼らの行ないへの報酬として用意しているものを知らない(三二章一七*9)」のであるから。(pp.63-4)))

  ジャンナの描写もヴァルホッルやエインへㇽヤルやヴァルキュリャ表象に影響を与えている可能性がどこかで論ぜられていた気がする(超曖昧)。しかし、杯を運んでくるのが若者たちであるというおおっぴらな発想は、北欧<異教>社会ではどのみち馴染まなかったのだろうと思える。ところで若者は何章何節に出てくるのであろうか。時間があるときに探してみよう。

 

 

予定説と自由意志

 「不信心者は、実に汝が警告しようとも警告せずとも変わりはない。彼らは知ることがない。神は彼らの心と耳に封印を置いたのである。また覆いが彼らの目に被さっており、恐ろしい懲罰が彼らを待っているのだ」(二章六~七)

 予定説が、この節や、また同じ意味をもった他の節には芽生えているようであ(たとえば七六章三〇*10.他には九章五一*11)。神意は、人間存在に関わるすべてのことに決定的な役割を果たしている。とりわけ彼らをまっすぐな道に導いたり、もしくは彼らを迷わせたりするさいには。にもかかわらずもう一方で、人間はみずからの行動すべてに責任を負わなければならない。少なくとも以下に言われているような結果が伴うのである。

 「もし汝らが、禁じられている大罪を避けるのならば、我らは汝らの悪行は赦し、名誉をもって天国へ導こうではないか」(四章三一)もしくは「神は、神の徴を信じない者たちを導きはしない。恐ろしい懲罰が彼らを待っているのだ」(一六章一〇四)(pp.57-8)

イスラームシャリーア (charī'a)がムハンマドの死後何十年たってからでなければ、その完全な形式化をなしえなかったのと同様に、イスラームの教義において、この体系を詳細に検討するさいに、コーランが重要な情報源であることには変わりないが、唯一のものではない。多くの点において伝統的な知識人は、彼らの論証を支えてくれそうな文章の論拠を引っ張り出してきた。たとえば、いくつかの解釈では、啓示に予定説が含まれていると見なすために、二章六~七*12や一四章四*13が引き合いに出されるが、自由意志を支持するコーラン解釈の信奉者は、四章三一*14を強調する。(pp.77-8)

 

 

聖書(ユダヤキリスト教的伝統)などからの借用・影響関係

 

 全体としてごく最近まで、研究者は、ほぼ文字通り聖書を引用している二つの節を除いて(二一章一〇五*15が詩編三七-二九*16出エジプト記二一-二三~二五*17レビ記二四-一七~二〇*18)、正確な対応箇所を見つけるのに苦労した。その他の場合、状況は もっと混乱している。旧約聖書と関係をもっているであろう要素の典拠が直接的にそうあるわけではない。それはヨセフの物語で「創世記」と違っている部分があるということによって明らかである。新約聖書の人物、とくにイエスは、揺籃期の外典福音書に部分的に由来しているようである。マリア、受胎告知、降誕、そしてイエスの幼年期に関係している話は明らかにこれらのテキストに依拠している。イエスと瓜二つの人間が磔刑にされたという話も同じくこれに由来している(四章一五七*19)。そのうえ、コーランにおけるイエスは、キリスト教の典拠には平行箇所が存在しないような発言を何度も行っている。

 同様に、その一部はロクマーンという人物に結び付けられる(とくに三一章一二*20など)知恵物語の断片の存在が見受けられる。それは、しばしば聖書や予言的人物と結びついた、「賢さ」の重要性を強調している。この格言という文学的ジャンルは、同時にユダヤキリスト教的伝統の一部をなしている。小説的な話、一方ではアレクサンドロス大王伝、他方ではエフェソスの七人の眠り人の伝説、これらはコーランによって語り直された。まず、二つの節のうちの一つにおいて、アレクサンドロスモーセに置き換えられていることは記しておかなければならない(一八章六〇~六四*21)最後に、マニ教からの影響の問題は、「預言者の封印」の概念と関係して示された(三三章四〇*22)。これらの異なった要素については、依然として宗教史の専門家にとっての調査領域である。ムハンマドへの情報提供者の同定は、こういった影響を与えることができた仲介者を見つけることを可能にしてくれる(Gillot C., Les <<informateurs>> juifs et chrétiens de Muhammad. Reprise d'un Problème traité par Aloys Sprenger et Teodor Nöldeke, Jerusalem Studies in Arabic and Isram, 22 (1998), p.84-126)。 

 ユダヤ教から借用された要素の研究は、北東アラビアにおけるユダヤ人共同体の存在が知られているのだから、当然のことである。(後略)(pp.127-8)

 処刑されたのは別人であるとするような外典は確かに聞いたことがある気がするが(超曖昧)、どちらもイエスの神性を否定しているのだろうと解釈できるにしても、クルアーンと特定の聖書外典との間に直接の関係を断定する材料にはならない気がする。否定論は似通ってくるものでもあるだろうし。いずれにせよ、既に流布していた否定論をクルアーンが採用した程度であったとしても、独創ではないのだろうとは推測できるだろう。

  特定の情報提供者がいなければユダヤキリスト教的伝統についてムハンマドが知り得なかったという想定もちょっと疑問である。特に旧訳聖書に取り込まれたような伝統は、デロッシュも「(…)、それが一般的に「昔の人たちの書いたもの/物語」であると言及されるほど(二五章五*23ムハンマドの聴衆がその歴史に親しんでいたことを示している。」(p.127)と述べるように、アラビア半島では昔話や諺言など様々なかたちでもお馴染みのものであったのではないか。p.127の続く文章も含めて改めて引用しておく。

(…)、それが一般的に「昔の人たちの書いたもの/物語」であると言及されるほど(二五章五)ムハンマドの聴衆がその歴史に親しんでいたことを示している。ただし、テキストが 暗示に留まっていることは珍しくはない。ヨセフの物語は、スーラ全体を占めているという点で(一二章)、例外である。とりわけより後期のスーラにおいては聖書が明確に言及されている。そこではしばしばトーラーや詩篇福音書が問題にされている。福音書に関しては、単数形で現れており、正典的な四つの福音書の存在が知られていなかったということを推測させる。(p.127) 

 

===================================

*1:九章一二四「(新たに)1章〔スーラ〕が下る度にかれらのある者は言う。「これによってあなたがたの中、誰が信心を深めるであろうか。」本当に信仰する者は、これによって信心を深め、喜ぶ。」

九章五「聖月が過ぎたならば、多神教徒を見付け次第殺し、またはこれを捕虜にし、拘禁し、また凡ての計略(を準備して)これを待ち伏せよ。だがかれらが悔悟して、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をするならば、かれらのために道を開け。本当にアッラーは寛容にして慈悲深い方であられる。」

ここに対応関係があるようには見えないので、一二四は別の章であろうか。

クルアーンの文章は伊斯蘭文化のホームページ内の日本ムスリム協会発行
「日亜対訳・注解 聖クルアーン(第6刷)」
より引用。以下クルアーンからの引用はすべて同サイトの「日亜対訳・注解 聖クルアーン(第6刷)」より

*2:最も美しい凡ての御名はアッラーに属する。それでこれら(の御名)で、かれを呼びなさい。かれの御名を冒涜するものは放っておきなさい。かれらはその行ったことにより報いられるであろう。」

*3:言ってやるがいい。「アッラーに祈れ。慈悲深い御方に祈りなさい。どの御名でかれに祈ろうとも、最も美しい御名は、凡てかれに属する。」礼拝の折には、声高に唱えてはならない。また(余り)低く唱えてもいけない。その中間の道をとれ。」

*4:イスラームの)先達は、第1は(マッカからの)遷移者と、(遷移者を迎え助けたマディーナの)援助者と、善い行いをなし、かれらに従った者たちである。アッラーはかれらを愛でられ、かれらもまたかれに満悦する。かれは川が下を永遠に流れる楽園を、かれらのために備え、そこに永遠に住まわせられる。それは至上の幸福の成就である。」

*5:かれらは、その祖先と配偶者と子孫の中の善行に励む者と一緒に、アドン(エデン)の園に入るであろう。そして天使たちも各々の門からかれらの許に入(ってこう挨拶す)るであろう。」

*6:「またわれは果物、肉、その外かれらの望むものを与えよう。」

*7:45.清い泉からくんだ杯は、かれらにゆきわたり、
46.真白(な美酒は)、飲む者に心地よい甘さ。
47.これは、頭痛を催さず、酔わせもしない。

*8:このようにわれは、輝いた大きい目の乙女たちをかれらの配偶者にするであろう。」

*9:かれらはその行ったことの報奨として、喜ばしいものが自分のためにひそかに(用意)されているのを知らない。」

*10:だがアッラーが御望みにならなければ、あなたがたは欲しないであろう。アッラーは全知にして英明であられる。」

*11:言ってやるがいい。「アッラーが、わたしたちに定められる(運命の)外には、何もわたしたちにふりかからない。かれは、わたしたちの守護者であられる。信者たちはアッラーを信頼しなければならない。」」

*12:6.本当に信仰を拒否する者は、あなたが警告しても、また警告しなくても同じで、(頑固に)信じようとはしないであろう。
7.アッラーは、かれらの心も耳をも封じられる。また目には覆いをされ、重い懲罰を科せられよう。」

*13:われはその民の言葉を使わないような使徒を遣わしたことはない。(それはその使命を)かれらに明瞭に説くためである。それでアッラーは、御好みの者を迷うに任せ、また御好みの者を導かれる。かれは、偉力ならびなく英明であられる。」

*14:だがあなたがたが、禁じられた大罪を避けるならば、われはあなたがたの罪過を消滅させ、栄誉ある門に入らせるであろう。」

*15:「その日われは、書き物を巻くように諸天を巻き上げる。われが最初創造したように、再び繰り返す。これはわれの定めた約束である。われは必ずそれを完遂する。」

*16:「主に従う人は地を継ぎ/いつまでも、そこに住み続ける。 」

訳文は、新共同訳。一般財団法人日本聖書協会聖書本文検索より。以下聖書からの引用はすべて同サービスより。)))、五章四五((「われはかれらのために律法の中で定めた。「生命には生命、目には目、鼻には鼻、耳には耳、歯には歯、凡ての傷害にも、(同様の)報復を。」しかしその報復を控えて許すならば、それは自分の罪の償いとなる。アッラーが下されるものによって裁判しない者は、不義を行う者である。」

*17:「23:もし、その他の損傷があるならば、命には命、 

24:目には目、歯には歯、手には手、足には足、
25:やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」

*18:「17:人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。 

18:家畜を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う。 
19:人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。
20:骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。 」

*19:「「わたしたちはアッラーの使徒、マルヤムの子マスィーフ(メシア)、イーサーを殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だがかれらがかれ(イーサー)を殺したのでもなく、またかれを十字架にかけたのでもない。只かれらにそう見えたまでである。本当にこのことに就いて議論する者は、それに疑問を抱いている。かれらはそれに就いて(確かな)知識はなく、只臆測するだけである。確実にかれを殺したというわけではなく。」

*20:「われは(以前に)ルクマーンに、アッラーに感謝するよう英知を授けた。誰でも感謝する者は、自分の魂のために感謝するのである。だが恩を忘れる者がいたところで、本当にアッラーには、何の問題もない。かれは讃美される方である。」。三一章自体が「ルクマーン章」と呼称される。

*21:60.ムーサーがその従者にこう言った時を思え。「わたしは2つの海が会う所に行き着くまでは、何年かかっても、(旅を)止めないであろう。」
61.しかしかれらが、2つ(の海)の出会った地点に辿り着いた時、かれらの魚(のこと)を忘れていたので、それは海に道をとって、すっと逃げ失せてしまった。
62.かれら両人が(そこを)過ぎ去った時、かれ(ム-サー)は従者に言った。「わたしたちの朝食を出しなさい。わたしたちは、この旅で本当に疲れ果てた。」
63.かれは(答えて)言った。「あなたは御分りでしょうか。わたしたちが岩の上で休んだ時、わたしはすっかりその魚(のこと)を忘れていました。これに就いて、(あなたに)告げることを忘れさせたのは、悪魔に違いありません。それは、海に道をとって逃げました。不思議なこともあるものです。」
64.かれ(ムーサー)は言った。「それこそは、わたしたちが探し求めていたものだ。」そこでかれらはもと来た道を引き返した。

*22:ムハンマドは、あなたがた男たちの誰の父親でもない。しかし、アッラーの使徒であり、また預言者たちの封緘である。本当にアッラーは全知であられる。」

*23:またかれらは言う。「昔の物語で、それをかれが書き下したのである。それを朝夕、口で言って書き取らせたのである。」」

読書ノート 鶴見良行『東南アジアを知る;私の方法』岩波新書(1995)

鶴見良行『東南アジアを知る;私の方法』岩波新書(1995)

 『バナナと日本人』(未読)の著者として知られている鶴見良行、というのが一番適切な紹介の仕方なのだろうか(僕は不見識なので的外れかも)。姓を見ただけでも「あの鶴見さんの親戚かな?」とピンとくるが、本書に寄せられた、晩年に著者を龍谷大学に誘った中村尚司の文章にも「辺地とはいえ、いとこの鶴見俊輔さんの住む京都への転居は、かれなりに期するところはあったはずである。」(p.218)と言及されている。「期するところ」の含意はわからないが。

 本書は著者の死後出版されたもので、講演記録や過去の発表物から再構成し、著者の方法論後進に伝えることを意識しつつ、1965年以降の著者の歩みをまとめたような内容になっている。

 

 以下抜き書き。

 

 マングローブというのは海水にも生える木です。全部で四〇酒類か五〇種類ぐらいありますが、それが根を張って、だんだん海の方へ出て行く。つまり、マングローブというのは土地を造成しながら増えていく。

 だから現在でもマラッカ海峡は浚渫(しゅんせつ)されているのです。浚渫しなければ、おそらく数千年もすればふさがってしまうのではないか、という海なのです。(p.60)

 

 浚渫という言葉を初めて知った。他に「転移帯」(p.112)、「気水帯」(p.187)あたり。僕がモノを知らないだけである。

 

 第三世界の新興独立国家は、植民地主義の枠から生まれました。そのことを強調しておきたい。したがって、自然的秩序としてのまとまりを破壊されたかれらは、まとまりを、植民地主義への対抗から人為的に創出するしかなかった。(p.78)

 筆者は「あるていど自然の流れにそって、国歌を考えられるようになった日本のナショナリズム」(p.79)として第三世界の新興独立国家」と対比させているが、果たして<日本>をそのように規定することが妥当なのかには個人的には疑問を感じる(比較的、ということなら首肯せざるを得ないのかもしれないが)。

 「ネーション・ステート」についてはpp.129-30にも述べられている。

 

 鶴見は君主や王への「忠誠の選択」を可能にした「移動分散型社会」の生産形態の一つとして焼き畑に着目していた。

 「逃げ出すとは、文字通り他所の土地へ移住することだ。同じような条件の土地はいくらでもあった。焼き畑にしろ漁業にしろ、移動は生業(なりわい)の一部である。農民の田畑は、先祖代々、営々として血と汗を注ぎ込んできたというようなものではない。領主を気に入らなければ民衆はいとも容易に腰をあげて移っていった。」(『マングローブの沼地で』)(p.113 脚注部分)

  『かぐや姫の物語』に、炭焼きの男が、捨丸の所属する集団は「木を使い尽くしてしまうと山が死ぬから」移動した、十年もすれば力を蓄えて山が甦るからまた戻ってくるだろう、この炭焼きがいい例だ、と語るシーンがあったが、『もののけ姫』に出てくるタタラ場に関連して、弥生時代には多くの原生林が消失しているのは製鉄開始によってではないか、とする文章*1を読んでいたこともあり、ジブリの中の人たちに共有されている問題意識が垣間見えた気がした(話が逸れるが、竹取物語かぐや姫が竹から生まれるのは、竹の生育のはやさにひっかけたものではないだろうか)。

 著者も後の方で網野善彦の論を引用するかたちで、日本でも海民から水軍としての武士、供祭人、近江商人が生まれたことを書いている(p.121-2)。

 また、本書では後の方でマングローブ炭について書いている。

 ここでマングローブ炭づくりには時間と手間がかかることを知った。刈ってきたマングローブは三か月も外で干すのである。この一帯はマングローブの保護林で、特別の許可を受けた少数の住民しかマングローブを刈れない。

 かつてTVのキャスターがここのマングローブ林を見事な自然林と語っていたが、私の見たところ二次林である。炭のために伐採するマングローブは、根まで枯らさないので芽をふいて再生している。(p.200)

 

 日本では徳川期、長崎の貿易を幕府が官営貿易という形で独占していた。中国船とオランダ船が入ってくるのですが、中国船は日本から金、銀、のちには銅をいちばんほしがったのです。中国からは染めていない、「白糸」と言っていますが、生糸を持ってきます。

 幕藩体制が比較的安定して、経済が成長するにつれて、当然、通貨を増発しなければならない。それに充てる銀と銅が足りなくなるわけです。元禄時代以後、貨幣が改鋳されて、質が悪くなってきます。そうすると当然、インフレが進行して、幕藩体制の基盤が揺らいできます。

 それで、金、銀と銅の輸出を統制しまして、これに代わるものとして出てくるのが、「俵物(ひょうもつ)三品」と呼ばれたイリコ(ホンナマコ)とホシアワビとフカのヒレです。この三品がバーター商品(註 金銀銅の流出を阻止するために、物々交換で交換された交易品のこと。)として、中国から入ってくる生糸と交換されるのです。

 ですから、日本の幕藩体制の後半期、約一五〇年近くの交易経済を支えていたのは、実際にはナマコだったのです。これを捕っていた、あるいは、ほとんど強制的に捕らされていたのは、国家史に登場しないような海辺の漁民です。なかでも最上の品をつくっていたのは津軽藩と松前藩で、北海道のアイヌの人たちが強制的に捕らされていました。(pp.147-8)

  周縁の民が中央権力の権力基盤化していく過程の典型例のようで面白いが、あまりに単純化した受け止め方をしてしまうのもよくないか。

 

 インドとインドネシアと フィリピンでダムを建設するプロジェクトがあるとする。それについて、事前に環境アセスメントをおこなうには、自然科学・社会科学でしっかりとした訓練を受け、しかも現地語をマスターした五、六人のチームによる一年間の調査が必要です。(p.160)

  先日読んだ『インドネシア;多民族国家の模索』でもODA関係の問題意識は述べられていた。

 

 クルマエビの養殖技術を開発したのは日本人学者 である。(…)

 初年度は自然の抱卵である。エビは抱卵を抑制するホルモンをあの突き出した目の付け根にもっている。それで二年目は人間が片眼をすりつぶしてしまう。さらに翌年は残った眼もすりつぶす。人間は欲望を満たすために自然に対して残酷である。(p.188)

 

 市内で使われるのか、再輸出されるのかたずねもらしたが、東南アジアの炭が香港に運ばれるという話はよく聞く。華人は弱火を「文火」、強火を「武火」といい、料理によって区別する。ぐつぐつと煮込む料理は文火である。これに使うのがマングローブ炭である。(p.203)

  香港映画で屋台で七輪(?)の炭火を使っているのを観た覚えがあるなあ。

 本書ではオイルパームがコレステロール値を高めるので有害と難癖をつける米国を「意地悪く狭量」、自らが輸出する大豆、大豆油、しめかすと輸入するパーム油を使い分ける中国をもっと大人と対比させているところがあったり(pp.167-8)、かつての欧州、<今>の日本・米国に象徴されるような植民地主義・中央中心主義に対して、香港や華人社会を含む<中国>には相対的に好意的な眼差しを感じる。

 

 (*フィリピンのバナナ・プランテーションで働く)彼らは北方からやってきたクリスチャン・フィリピーノです。北方というのは、大地主が支配している土地で、そこからやってきたのは、土地なし農民です。経済用語でいう言葉がないので非常に具合が悪いのですが、”ルンペン農民”です。地主からすればかれらは厄介者ですから、追い出そうとする。みんな国内移民としてミンダナオなどへ入ってきています。

 その人たちが、現在はダバオの小さな自営農家、もしくはその労働者として、バナナ農園で働いているわけです。しかしかれらがやってきた当時、そこには当然、先住民族であるマノボとかバコボ、という精霊信仰の人たちがいました。そういう人たちを追い出しているのです。

 それ以前、戦前期には、一九〇六年ぐらいから、日本人が入って、ダバオで麻農園を開きました。麻農園を開いた日本の移民の六割くらいが沖縄からです。

 貧しいがゆえに、土地なきがゆえに追い出されてきた人たちが、そこに入って加害者になっています。それが現在では、さらにまた被害者になってくる。そういう関係が見えます。(pp.100-1)

 フィリピンの宗教人口は、カトリックが八五%と、圧倒的に優勢であるが、ミンダナオ島では、二〇世紀初頭までムスリムイスラム教徒)が植民地支配を排除していた。

 これに対し、アメリカ植民地時代から今日まで、とくに一九六〇年代のマルコス政権下、ルソン島ビサヤ諸島などの(ミンダナオ島から見れば北方の)土地を持たない農民(ほとんどはクリスチャン)を入植させることで、ミンダナオ全域を支配下におくこと(p.100脚注部分)

 (…)現在、問題となっているダバオの日比混血児の多くは、これら入植日本人の子どもたちである。(p.102脚注部分)

 「貧しいがゆえに、土地なきがゆえに追い出されてきた人たちが、そこに入って加害者になっています。それが現在では、さらにまた被害者になってくる。」とか、ムスリムや先住民居住地にクリスチャン・フィリピーノを入植させたというのは、1950年代ごろまでの日本の移民(棄民)政策やイスラエルの入植地問題*2に(部分的に)通じるものがあると思う。また、<日比混血児問題>は<韓越混血児(いわゆるライダイハン)問題>にも通じるのではないか。

 

 この地域に、国家らしい国家ができるのは、七世紀ごろのスリウィジャヤ王国です。これは国家と言っても、中国が国家であったりインドが国家であったり、ヨーロッパにいろいろな国家があったり、日本が国家であるというのと少し意味が違います。スリウィジャヤは、いくつもの港の連合体です。

 一四世紀末からほぼ一一〇年間、ポルトガルが来て潰されてしまうまでのあいだあったのがマラッカ王国ですが、マラッカ王国港の連合体で、「港市交易国家」と呼ばれるものです。港市交易国家というのは、一つの港でできているのではなく、いくつもの港の連合体なので、縮んだり大きくなったりできる。一つの港が脱落してしまえば小さくなるだけの話ですし、新たに二つ三つの港が加われば広がるわけです。(p.61)

 ここ五年ほど、私はボルネオ最北端のマレーシアのサバ州にオイルパーム農園の調査に通っている。ここはタラカンあたりとは地続き で軽飛行機も往復しているのだが、サバの側にはビニシ船大工がまったく入っていない。ここはフィリピン人、とくにミンダナオ島民の領分である。これはたいへん面白いことだ。

 東南アジア学では対象とする東南アジアを、何とかして一つのまとまりとして構築しようとして、さまざまな仮説が提出されている。私も「島嶼東南アジア」というふうに海の側の東南アジアを一つのまとまりとして考えようとしてきたが、どうやら船文化には”国境”があるらしいのである。(p.212)

  この辺の著者の<国家観>は示唆的な感じがする。

 

 理論や構図は、 支配者がその社会を中央で支配している実際に即して書かれています。こうした史観を渡した、Ⅳ章でも述べたように、「中央主義史観」と呼びます。それは、権力の中央に座っている人の目で見た歴史ということです。こうした権力支配の構図に批判的な史学者も、ちゅおう権力者に眼を留めざるを得ません。そうした形で、左翼にも中央主義史観が影を落としています。

 植民地だった東南アジアに行くと、こうした中央主義史観の眼のゆがみは、いっそうひどくなります。

 植民地主義は、農耕と鉱山で運営されます。しかし、それは、たとえば、イギリス領、オランダ領、スペイン領の全域にわたったわけではありません。

 ジャカルタ、マニラ、クアラルンプールなど、今日の首都は、植民地主義が利益をあげた土地の中心です。逆にいうと、民衆が植民地主義によって、もっとも苦しめられた土地の中心であります。

 ですから植民地主義に批判的であればあるほど、中心が支配した土地に眼を注がざるを得ません。

 こうして史観は二極に分裂します。pro-権力の中心主義と、anti-権力の中心主義です。どちらも中心に目がいっていることでは同じです。(pp.149-51)

 

読書メモ 小川忠『インドネシア;多民族国家の模索』岩波新書(1993)

 著者の小川忠独立行政法人国際交流基金職員。1989年4月から1993年1月まで国際交流基金ジャカルタ日本文化センター駐在員としてジャカルタに生活した際の体験に基づいて、主にインドネシアの文化人との交流を通じて見たインドネシアの社会・文化・歴史・矛盾などを伝える。どうしても交流の性質上、<男の付き合い>とでもいうべきか、生活感が薄く、世界最大のイスラム人口を有するインドネシアということでどうしても目が向く女性の立場などは見えてこないところはある。そこは著者の仕事柄もあるだろうが、どうしても観光ガイド的な文化紹介に偏ってしまうのは、やはり90年代前半という時代の反映もあるように思える。

読書メモ 朝日新聞戦後補償問題取材班『戦後補償とは何か』朝日文庫(1999)

朝日新聞戦後補償問題取材班『戦後補償とは何か』朝日文庫(1999)

初出単行本

朝日新聞戦後補償問題取材班『戦後補償とは何か』ND BOOKS(1994)

 

 「「戦後補償」と「戦時賠償」は、意味合いが違う。戦時賠償は勝った国が負けた国から奪い取る、いわば「戦利品」だ。一方、補償は戦争の勝敗とは直接かかわりなく、物心両面の被害、損失を補い償う」との考え方が近年有力になってきた。(後略)」(p.150)

 

収録資料

・日本のとってきた戦後処理関係条約一覧

・日本に対する主な戦後補償請求訴訟

・戦後補償問題に関する朝日新聞社世論調査の結果から

巻末収録資料

カイロ宣言

ポツダム宣言

サンフランシスコ条約[抄]

日韓基本条約

・日ソ共同宣言

日中共同声明

・戦後補償関連年表

 

「Ⅳ 被害うずまくアジアの表情」で紹介されている当時の補償請求運動の規模とその代表者

・マレーシア 「死の鉄道」労働者 300人 宗日開(ソンルカイ)

シンガポール 虐殺 20人 梁亜六(リャンアーラク)

・香港 軍票 17人 呉溢興(ウーイーシン)*香港索償協会

インドネシア 50人? 元兵補 タスリップ・ラハルジョ *インドネシア元兵補連絡協議会

・台湾 軍事郵便貯金 約10000人 謝天来(シェティエンライ)*台湾元日本人・軍属・遺族協会

・フィリピン 慰安婦 46人 ネリア・サンチョ *「日本軍の性的奴隷の犠牲者たち」特別調査団

・韓国 在韓被爆者 約2500人 代表者明記されず *原爆被害者協会

サハリン 残留韓国・朝鮮人 明記されず(当時の生存一世は約2000人) 朴亥東(パクヘドン)*サハリン韓人老人会

・在日 韓国・朝鮮人BC級戦犯 個別訴訟事例 李鶴来(イハンネ)

メモ:90年代中国対日民間賠償請求運動の童増氏に関する記述を見つけた

 注目されているのが、中国老齢科学研究センター副研究員の童増氏(三七)。九一年、全国人民代表大会全人代=国会)に、建議書を提出したのをきっかけに、日本への民間補償請求を、全国的な運動として取り組み始めた。九二年九月には、「中国民間対日索賠(賠償請求)委員会」を結成。現在、被害者のネットワークを広げている。これまで、五十万人が署名に応じたという。北京の日本大使館には、賠償を求める手紙が多数、届いている。

 童増氏は、「日中戦争での損害額は三〇〇〇億ドル。中国政府が放棄したのは、国家賠償の一二〇〇億ドルにすぎない。民間賠償の一八〇〇億ドル(約一九兆円)は、日本に請求できる。と主張。民間被害の範囲として、①非戦闘員の殺害、傷害②強制労働③女性に対する暴行④細菌兵器の人体実験と使用による被害⑤爆弾による殺傷や個人と法人の財産被害、など十項目を挙げている。

 被害の掘り起しのなか、童増氏らは、中国で約四十人の元従軍慰安婦を確認したという。

 民間補償請求の動きについて、九二年九月、当時の呉学謙副首相は「政府とは別のことだ。民間が正常なルートを通じ、彼らの要求を訴えることは正常なことだ。日本政府がこの問題を適切に解決すると思う」と語った。中国政府は民間の活動に関知しないという立場を明確にするとともに、日本政府の対応を眺める態度を示した。

 しかし、実際には、党も政府も民間補償要求の動きを抑制している、との見方もある。九一年から毎年、全人代に、日本に民間賠償を求める提案がなされているが、正式議案として取り上げられ、採択されるという事態にはなっていない。党や政府内部には、この問題をめぐって、なお議論があるようだ。

「国民にやめさせようとすれば、逆に党や政府が国民の批判を受ける」「人民の代表である人民政府として、賠償を放棄したはずだ。民間賠償を求めるのは、人民政府の立場と矛盾しないか」という意見もあるらしい。外交への影響や世界の実例なども研究しているようだ。

 童増氏は、「この問題が早く解決すると、日本を制約する圧力みたいなものがなくなる、という人は多い。政府のなかにもいる。私は、被害者が生存しているうちに早く解決させたいと思う。外交とは切り離すべきだ」と語っている。

---朝日新聞戦後補償問題取材班『戦後補償とは何か』朝日文庫(1999)pp.83-5   *年齢は1994年単行本発行時のもの

 

 映画「太陽がほしい」*1で童増氏の活動が紹介されていたのを観てから気になっていたのだが、姓を<董>と思い込んでいたのでググっても見つけられずにいた。

 

 <童増>でググると案の定というかなんというか、あっち側の方々にとってはお馴染みの名前のようだ*2

 かつては中国公安に拘束されたり、中国政府から迫害に近い仕打ちを受けていたが、ここ10年ほどは<反日デモ>や<釣魚島>問題や、日本企業提訴運動の主導者として非常に存在感を増しているようだ*3

 近年では会長を務める団体、が唐鴻臚井碑返還運動を起こし(2014年)*4、昨年2015年にはノーベル平和賞候補にも選ばれている*5

*1:

human-hands.com

 

*2:

f:id:torewolf:20160129235638p:plain

*3:

時事通信社北京特派員 城山英巳「<テーマ:中国の膨張を止められるか>日本車を破壊し尖閣に上陸する「反日デモ」の猛威 それらを主導する著名活動家に本音を聞いた」

文藝春秋SPECIAL 2014夏 2014年06月10日 

blogos.com

*4:「中国民間団体、初めて日本の皇室に文物返還を要求」チャイナネット2014年8月11日 

japanese.china.org.cn

*5:「民間の対日賠償請求第1号がノーベル平和賞候補に」
人民網日本語版 2015年03月28日 

j.people.com.cn

調べてみた:「ヴァージニア州の最初の奴隷所有者は白人でなく黒人の地主」であったといえるのか?

 はてなブログはじめてみました。
 とりあえず、練習で、以前に書いた記事

A wolf at the door (workingtitle) - 調べてみた:「ヴァージニア州の最初の奴隷所有者は白人でなく黒人の地主」であったといえるのか?

 を転載。

 

「もっと愚かなのは、「ヴァージニア州の最初の奴隷所有者は白人でなく黒人の地主なのである」(*イザヤ・ベンタザン『日本人とユダヤ人』四二頁)という文である。(中略)
 大まじめに訂正をするのも照れくさいほどであるが、事実はちょうどこの逆なのだ。一六一九年、バージニア植民地(まだベンダサン氏のいうように「州」ではなかった)にはじめて二十人の黒人奴隷がオランダ船で運ばれてきた、これぞアメリカ奴隷制の起源である。J.レスター『奴隷とは』(岩波新書)の、最初のたった二頁でも読んでいれば(あるいは同じ岩波新書の本田創造『アメリカ黒人の歴史』の二九頁以下「最初の黒人奴隷の所を読んでいれば)こういう真っ逆様のウソはつかないで済む。(後略)」

       浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫(1986)p.40

 このベンダサンの「ヴァージニア州の最初の奴隷所有者は白人でなく黒人の地主なのである」は、「当時南京には20万人しかいなかった」言説から脈々と続く、いわば<事実のかけつぎによるフィクション化>とでも呼ぶべき手法で、一見すると荒唐無稽なでまかせにしかみえないほどに思いもよらないところから共糸を引き抜いてきているために、言下に全否定すると、「情弱乙www」で勝利宣言されてしまう典型例のひとつだと思う。教養書(どころか大抵は専門書でも)で知るような<一般論>では特に言及されないような副次的だったり特殊例である情報を拾ってきて、「これに言及しないのは、不都合な真実だからだ」と勝ち誇るのである。

 さて、「最初の奴隷所有者は黒人」説自体は、ベンダサンがオリジナルなのかはわからないが、現在でもネットで散見されるデマでもある*1。ベンダサンよりは詳細に語られているケースを見ると、このデマは次のような構造になっているのがみえてくる。

  • 一般に、米国への黒人奴隷の<輸入>は1619年ヴァージニア植民地にオランダ船が<運んで>きた、20人のアフリカ黒人にはじまる、と説明される
  • しかし、初期の米国における<奴隷>は、黒人だけでなく、白人も含み、更に、この時代奴隷と呼ばれた人々の実態は<年季奉公人>であった。黒人も解放されれば土地を持つことができたのだ(ここに<慰安婦>強制否定論にも頻出する論理の萌芽がみられれるのは興味深い)。
  • では、黒人奴隷制度の法制化はいつからかというと、ヴァージニアにおいては1661年からである。
  • しかし、それ以前から法的に拘束された<終生>の<資産として扱われる>奴隷は存在した。それは年季奉公を終えた後土地所有者となった黒人、アンソニージョンソンが1654年に裁判に訴えたことによって下った判決によって生まれた一人の奴隷である。

 おそらくは、ベンダサンあるいは彼にこの嘘を吹き込んだものも、問われれば、このような説明を行ったのではないか。

 つまり、「あくまでこの意味においては、正しいのだ」と。

 アンソニー・ジョンソンの1654年のケースは'Casor suit'としてアンソニーの英文ウィキペディア記事にも確認できる*2。日本語の「アメリカ合衆国の奴隷制度の)歴史」のページ*3にも確認できる。だが、アンソニーを「ヴァージニア最初の黒人奴隷の主人」とする文脈ではない。米国の歴史における裁判判決による法的な<終身奴隷制度>のマイルストーンとされるのは、1640年のJohn Punch裁判である*4。アンソニーは米国において知られる、年季奉公を経て自由になった後に土地所有者となったはじめての黒人として、まず第一に記憶されているのだ。

 また、米国の歴史においても最初に奴隷制度が確立したのは1641年のマサチューセッツからだと語られる*5

 つまり、奴隷制度確立以前であれば、年季さえ明ければ黒人が自由に土地を取得していた、という風に一般化することもできなければ、奴隷制度が一般に確立する以前から、黒人農場主だけが特に奴隷を求めていた、ということもできない。

 だが、「最初の奴隷所有者は白人でなく黒人」デマを流すものは、明らかに「少なくとも初期は黒人は自由だったし、そもそも、自由な立場であれば黒人であっても奴隷を所有することを望んだのだ」と印象づけたがっている。

 結局は、このような言説に対しては、一見荒唐無稽なうわべだけではなく、その裏に隠された意図をも見抜かなければならない、ということがいえるのではないだろうか。

 まさに日高六郎いうところの「特殊によって一般を推定するエピソード主義」(浅見、前掲書p.4)であり、そのように特殊を一般であるかのように見せかけることを幾重にも積み重ねていくことで築き上げる虚構によって、ベンダサンも、また、現代のベンダサンたちも、<戦果>をあげてきたのである。

 

補足:この「ヴァージニア州の最初の奴隷所有者は白人でなく黒人の地主なのである」デマが持ち出される最大の目的は、<慰安婦>強制否定論にも見られる、「日本の<伝統>である年季奉公は奴隷とは異なる」ということを強調することだろう。つまり、かの勢力は<債務奴隷>という概念を否定したいのだ。

 「米国の歴史においても結局は債務奴隷の実態は年季奉公人だったではないか」という言い方で、<債務奴隷>の非道性を無効化しようとしているのだ。

公会堂で、また貴方と一緒になった

師よ、僕は貴方が嫌いだった

あの頃貴方はいつも僕らを打ちのめした
それは正しさによってではない
僕らが子供で、貴方がたが大人である
ただそれだけの事で僕らの声を奪い
足を縛り眼を覆い
疑問を口にする事すら封じた
年若いけもののしなやかさを恐れたのか
僕らは貴方がたの恐怖だったのか
僕は貴方を憎んだ

今や貴方は惨めだ
僕は痛みすら感じる―――貴方の姿に
だが貴方はどこまでも僕に対立し続ける
どこまでも僕に反論を重ねる
どこに行っても貴方と私は対峙する
―――そして貴方はいつも敗れ続ける
方々の演壇の上で
あらゆる主題で
僕は喝采をもって
あるいは畏怖をもって賛同を得る
―――そうだ、僕は畏れられることすらできる
だがかつての貴方のように ただ、より長く生きているという理由からではない

僕は約束する
富を、健康を、平和を
事実、そうなった
我々は栄え、増えている
生活は清潔になった 夜の突然の闇に怯えることもない
冬の寒さにも

一方で貴方は聴衆を不安にさせる
―――だかそれも一時だけだ
人々は賢い
人々は選び取る
何が彼らに必要なのか 何を手放したくないのか
判っているのだ だから恐怖に挫けない
僕は彼らの目が、頬が 僕の言葉の進むにつれ
僕の抱いているのと同じ誇らしさに輝き紅潮するのを見る

「おめでとう、また君の勝ちだね
君は(そして君たちは)賢く、強い 正しくすらある
―――だが、勝ち続けて得るものは本当に君らがその手におさめたと云えるのだろうか
勝ち続けて最後に何を手にするというのだろう?ほんとうに手にするものとは」

それは、必要な事だったのです
私は確かに急ぎ過ぎているかもしれない けれどそれは必要な事なのです

「そうかもしれない 
だが、なぜ君は私を生かし続けるのだろう?

君の(そして君たちの)手に入れた強さが
君の手に入れた力が
君の手に入れた栄光が
災厄に名前を変えたとき―――
君たちが悔恨するときのために私はいなければならないのだろうか、

―――プロメテウスよ」


私は目を伏せた
そこには演壇のへりがあった

沈黙が流れた

公会堂から人々は去って私は独りだった いつも通り

私は面を上げ、正面の席に向けて口を開いた