書評 村上春樹『アンダーグラウンド』

村上春樹アンダーグラウンド講談社文庫 1999(初版;講談社 1997)

 <西洋>という社会構造が産み出してきた差別の構図について、我々は多くのイメージを描くことができる。それは魔女裁判であり、ユダヤ人のホロコーストであり、奴隷貿易である。だが、一方で我々自身の行っている差別について、明確な絵を掲げることができるだろうか?

 故なくなされる迫害、差別というものがありえないことは、西洋社会の歴史の中にはっきりと示されている。無論、それは迫害者の側の論理において。迫害する側の集団も、かつては迫害を受ける側だったのであり、彼らの集団としてのロジックの大前提に、その被害者意識というものが分かちがたく刻み込まれているのだ。迫害する側に立った時もそれは変わらず、彼らは依然宗教的受難者として、行う迫害の正当性を主張するのである。それ故に我々にとっては彼らの正義における義と理の欠落部分が明白なのだ。

 だが、翻って我々自身は、自らの行う迫害に理由付けを行い得ているだろうか。日本の公論において差別は常に故なく行われるもので、被害者はどこまで行っても被害者であるという意識に留まってはいないだろうか。

 彼らは差別、迫害されて当然なのである、という余りにも幼稚な<開き直り>は、一面では問題の根を外だけでなく中においても具体化(対象化)する効果を持つ。心性の歪さを影として照らし出す光でもあるのだ。半ば公然と、キリスト殺害の全責任をユダヤ人に帰する言説は今日も絶えない。一方の我々は北京大虐殺を当然のものとしてロジック化(自己正当化)し得ているだろうか。眼を背け、その事実は存在しなかったと逃げて勝ち誇るのみである。我々は迫害を受ける人々が無辜であるとすることで、自らを意識的にその迫害する側の外に置こうとする。そして、差別、迫害は存在するが、その行う側も受ける側も顔の見えない、教科書の中にしか存在しないかのようなものとして意識の底に沈殿させてしまっているのではないか。

 本書は、オウム真理教による地下鉄サリン事件の被害者達の証言を集めたものである。優れた作家である筆者による問題設定は見事なものであるが、本書全体を通して見た時に得られる印象は、その問題意識とは乖離した極めて日本的なものであるといわざるを得ない。この場合、証言者は勿論のことながら、オウム真理教の人々も西洋的な見方においては被害者の筈である。そして、作者の意図においては、証言者たちの加害者としての一面をも引き出すべきであっただろう。だが、当然というべきであろう、証言者たちはなべて成熟した社会の成員であり、責めるべき非などなく、オウム真理教のテロルは、大多数の社会的義務を履行しつつ生きている人々に対して、およそ一面の理も有し得ない<自己中心>のものであり、この行為を正当化する如何なる言葉も我々は持ち得ないだろうであると断じざるを得ず、そして、問題の所在は依然不明瞭のままである。増して作者の英邁な知性において、真の悪の所在、正義の在所が導き出される筈がない(それは充分に歪な精神構造が無ければ不可能なことであろうから)。

 だが、筆者はその目的においては見事に成功している。エゴの強い筈の芸術家である筆者が、殆ど黒子に徹し、闇を語る言葉を持ち得ない日本の社会的論理の構造を暴き出し得たのは驚嘆に値するのではないか。先のイラク邦人人質事件を巡る言説の中で巻き起こった自己責任論の中に図らずも顕れているように、日本の論理は白も黒も無い未分化の家族主義で、その陰を照らす光を未だ得ていないのである。

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以前書いて放ってあった文章があったのを思い出したので、載せてみました。書いたのは2004年で、イラクの人質事件とかが例に上がってるのはその為です。えらく大上段に構えた文体が自分で笑えます^^;。この頃は小説を受容できるような精神的余裕がまったくなかった時期なのですが、それならもっと良質なルポなりドキュメンタリーなりを読んどきゃよかったと今になって思いますね。