サイレント・マジョリティ

 沈黙の保守派。ニクソンが「物言わぬ多数派」をこう定義してから、政権が自らの政策肯定のために用いるようになった言葉。

 つまり、目の前で反対の発言をしている人に対して、「あんたは所詮少数派に過ぎない、我々の背後には大多数の積極的には発言しないが我々を支持するひとびとがおり、かれらの意思の前ではあんたのちっぽけな意見など無視しても差し支えないのですよ」といっているのであり、よくもここまで人を莫迦にできたものだ、と思う。

 昨年の「郵政解散」での、雪崩を打った大勝の余禄を恃み、自民党、安倍は民意を拡大解釈して勝手に「サイレント・マジョリティ」の意思を捏造し、教育基本法改定、国旗国歌問題、言論統制、果ては憲法改定の道筋までをつけようとしている。安倍が急いでいるのは、明らかに次の大型選挙の機会が来てしまえば、彼の恃みの「沈黙の民意」がどう転ぶかわからないことを知っているからだ。

 そもそも、「郵政解散」には、「郵政民営化」という限定したひとつの政策について民意を問う、という建前があった筈だ。小泉に賛同した人々は、基本的には他の政策はどうであれ、この政策一点については彼を支持する、という意味合いで賛成票を投じた、というのが当時の、他ならぬ小泉や自民党の主張であったはずだ。それならば、現在安倍が強行しようとしている同じくらいかそれ以上に重要な法案成立についても改めて民意を問うのが当然であり、国民は現在自民党に託した信任を完全に悪用されている。これは詐欺商法の手口と変わりない。この商品を買うのに判子が必要だから預けて、といわれて鵜呑みにしたら、いつまで経っても返して貰えず、次々と要りもしない高額商品の証文を勝手に切られているようなものだ。どちらにも共通していることは、ほんのちょっとの世知があれば十分に予想できた事態にも関わらず、うかうかと乗せられているということ。先の選挙で無思慮な投票行動をした大多数の国民の甘さのツケは大きい。

 それとも、賛成票を投じた大多数のひとびとが、実は潜在的な安倍の政策の熱心な支持者であるなどということがありうるのだろうか。そうだとすれば、恐ろしいことだ。ネットでよく見られるような「ネット右翼」、視野狭窄的「愛国主義者」の意見が現実世界にあっても実は社会の過半数であるとすれば、そのような世界はゾッとする。

 インターネットはどのような立場にある人にも、広く発言する機会を拡大している。多くの人に「物言わぬ多数派」であることを止め、その機会を活かして行って欲しい。沈黙は一番恐い。相手がどんな意見を持っているかもわからず、顔も想像できない。言葉を持たなければ、互いの意見を確かめ合い、高め合うこともできない。どのような感情も、表現し他者の目に触れることを意識しなければ非常に拙い。技術の進歩は我々により意識を顕在化し、コミュニケーティヴになり、「物言う多数派」たり得る機会を得ているのだ。もはや沈黙は損しかもたらさないとの認識を持つべきだろう。