インモラル

実は俺ね、筒井康隆のファンだったのですよ。高校時代3年間、甲斐よしひろ筒井康隆スティーヴン・キング萩尾望都、こんだけでした。もう、無茶苦茶偏ってますね、安倍公房とかちょっとは純文学ぽいのも読みましたけどね、あの人もホントはかなりイロモノですよね。つうわけで、実は文学好きの方とも話が合わんのですよ。吉本ばななだの村上春樹だのトーマス・マンだの、ヘッセだの、まったく読んだことありませんでした。

そんで、最近また筒井康隆を読み返してるんですが、これが面白い。ただ、果たして今より更に無知だった高校時代にその内容が少しでも理解できていたのか疑わしくもなりましたが。やっぱマニアックなんですよね~。当時はジャズとか、文学的知識とかまったくなかったのに、このパロディやオマージュだらけの内容がどうして面白がれたのか。いやまあ筋だけでも面白いんですけど、今でも理解できないギャグが一杯あります。

最近のクリエイターがなぜつまらないか、という以前になぜクリエイティブではないか。はっきりいって、常識や社会や道徳やしがらみやルールや保身意識正気秩序ことば、意味に囚われすぎていると思う。マスコミが検閲の必要性をのうのうと語り、漫画家がナショナリズムを振りかざす。下らないです。

アートとは何か、無意味でなければならない。今だ意味づけされていない地平に砂のお城を建てなければならない。かつて、物語は勧善懲悪、博愛主義、正義の勝利という衣をまといながら、その内側に意味の崩壊、悪徳の饗宴、現実の侵犯、穢される聖なるものを内包していた。だからこそ鉄腕アトムの正義は白々しく、しかして公然と性の境界線の溶解したエロティシズムに満ちているのであり、人類愛を謳いながら、ヒューマニズムが自己矛盾の嘲笑と共に空中分解するのです。

いまや、正と奇、善と悪は完全に真っ二つに分けられ、虚構は絵空事、フィクションとしてのみ認識せよ、現実は社会的責任の名の下のお仕着せのご都合主義。

名状しがたいもの、それが虚構の好みであり、喜怒哀楽の表現を嫌う。英語的言語の文法は現実を虚構化し、変容させるが、日本語は主語には述語、説論には結論を要求し、はじめから現状肯定、固定した認識に帰属するようになっています。

その不自由さを逆手に武器として、外来の作法を模倣しながら不可知の廣野を切り開いた筒井康隆は、前衛を気取りながら実は感傷主義のロマンチストであることを最後に暴露するだけのオリジナルをすでに超越しています。内容を要求する言語であるからこそまったき空洞化できるのであり、数千万年かけて築かれてきた帰納のパターンから虚構を逸脱させることができるのです。

真実とはいつも川の向こうに発見される。それは彼岸であり、周縁である。フィクションは結末には必ず秩序に破れ、取り込まれるものとは、萩尾望都の作品を見ればいえないことであり、夢が現実よりたち優り、傷を舐めあうことが<正常な愛>を超越する。男でありながら、その域に達することができたのが筒井康隆であり、かれのスラップスティックは日常を侵犯し、いまや悪夢は現実に取って代わった。虚構の奈落を歩き、道化の姿をした預言者自身はいまだアメーバ状のリアリティの肢に捕捉されることなく名づけの外側で踊り続けています。