甲斐バンド 全曲レビュー その2 「No.1のバラード」



これは学生らしい歌詞になっていることで、逆に誰か特定の個人に向けての皮肉で唄っているのかも、と思わせるような妙なリアリティが出ている曲。学生たちの狭い現実の中だけで流通するようないい回しなんだよね。ただ、ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリングストーン」も実際にはそういった特定の個人へのあてつけなんだろうけど、この曲の場合は、実はそういう実在の人物を想定したものでもないような気がする。テーマが先にあって出来た曲なんじゃないかな。

『らいむらいと』と『英雄と悪漢』という2枚のアルバムを考えるとき、どうしても椎名林檎のファーストとセカンドアルバムと比較してしまう。

同じ福岡出身というだけでなく、椎名林檎の場合も東京に出る前と出た後の曲ってかなり色合いが違う。面白いことに、彼女の場合、「ここでキスして」とか「ギブス」みたいなよりポップでキャッチーな曲は福岡時代の曲で、デビューしてからの曲って、段々詰まんない方向に向かっていったように思えるんだよね、個人的には。

男女の違いなのか、性格の違いなのか、甲斐よしひろ椎名林檎もある特定の異性を想定して書かれたものは初期多いけど、甲斐よしひろの場合それがはっきり出るのは東京に出てきてからのもので、椎名林檎の場合は逆。現在形でしか書いていない。福岡の恋人の唄は福岡時代にしかないと思う。

「らいむらいと」の甲斐よしひろの曲の場合、特定の異性の存在を疑おうと思えば疑えるけれど、切実さが感じられないから、別に頭の中だけで考えたといっても説明できそう。「あの人はいってしまった」とか「長いこの道ひとりじゃ遠すぎる」とかいう淋しさを唄った歌詞はあるけれど、別に明日とか1週間後には逢えるけどそれまでが淋しい、という幸せな孤独という感じもする。「本当のさよなら」という感じがしないんだよね。

椎名林檎の場合、福岡時代の曲にはかなり悲壮感があるけど、逆にプロになってからはどんどん言葉遊びに堕していった感じ。福岡の恋人に対して、いずれは切り捨てていかなければならないものとして、常にタイムリミットを感じながら接していたから、よりひとつひとつの出来事を強烈に体験していたんじゃないかと思える。ある意味計算高い感じもするけど、そういったことに無自覚になれたほうが幸せであるともいえる。

「No.1のバラード」にちょっと似てる気がする曲が椎名林檎にある。「正しい街」。福岡の街と福岡の恋人にさよならを告げた1年後、東京には故郷の匂いはなく、正しい居場所ではないと感じている主人公。再び舞い戻ってきた主人公に恋人はキスをしてくれる。それはいったいどういう気持ちでしたものだったのか。

自惚れと向こう見ずにへし折られた自分への皮肉。「No.1のバラード」も無理にそういった見方をできないこともないけれど、それはその後の甲斐よしひろを知っての後づけの感想であって、この曲がつくられて時点ではそこまでの深読みはできそうにない。しかし、結局はこの類の唄は自分にしか帰ってこないものであることも確かなのだ。そういった因果にほとんど無自覚、鈍感に明朗に唄っているように聴こえる『らいむらいと』の甲斐よしひろと「正しい街」の椎名林檎の対照。

甲斐よしひろも、恋人の気性などを考えれば、福岡時代からいずれ別れの時が来る可能性を考えることはできたと思うんだよね。でも、『らいむらいと』の中のある意味凡庸な歌詞を見ると、そういった可能性に鈍感になることができていたんだと思う。椎名林檎との違い、それは男女の違いかもしれないけれど、甲斐よしひろのキャリアの上では、その違いがその後の方向性に大きな意味を持っていたんじゃないか。

『らいむらいと』の曲は、ポップでキャッチーという意味ではその後の曲より上回っている面もあると思う。ただ、椎名林檎のようにいきなり多くのひとの心を捉えられなかったのは、やっぱりその歌詞の弱さ、ともいえるんじゃないかと思える。しかし、甲斐バンドが決して満足はしていなかったファーストアルバムのディレ久ションで成功してしまっていたら、『英雄と悪漢』以降の方向性はあっただろうか?精々チューリップの焼き直しで終わってしまっていたかもしれない。椎名林檎の場合は、はじめの強烈な印象を超えるものがその後出てきていないように、私感かも知れないけれど思える。そういう意味では<早熟すぎた>といういいかたも出来るだろう。甲斐バンドの12年を支えたのは、ある意味この当初における未熟さだったといえるんじゃないだろうか。まさにアイロニーかもしれないけれど。