世界の中心ってエアーズロック?

 色々あって二日間アップできませんでした。主な理由は某ライオンズなんですが(笑)(試合見てないのであの負け方はどうにもコメントしづらい・・・)。

 さて、甲斐よしひろです。
 
 2、3年前に『世界の中心で愛を叫ぶ』という小説がブームになりましたね。あの題名を見て、別の作品を思い出したひとは結構多いはず。かれこれ10年ほど前、社会現象とまでいわれるほどに騒がれた某アニメーションの最終話のサブタイトルとしても使われた『世界の中心で愛を叫んだけもの(某アニメでは『世界の中心でアイを叫んだケモノ』)』"THE BEAST THAT SHOUTED LOVE AT THE HEART OF THE WORLD"という、アメリカのSF作家ハーラン・エリスン1960年代末の有名な短編小説。明らかにセカチューの題名はここからのいただきでしょう。

 まあ、直接某アニメからかも知れませんが。

 この短編、僕は持ってるんですがきちんと読んだとはとてもいえないので偉そうにかたれないのですが、邦題の言葉の響きが日本人には素敵にかんじるのでしょうか、どっちみち中身より題名のイメージがウけているところがあるような気がします。ちなみに僕も某アニメにもセカチューにもぜんっぜん思い入れないです(笑)。

 そんなトレンドな<セカチュー>ブームを、20年も前に先取りした男がいました。そうです、われらが甲斐よしひろす(ここまで長かったあ・・・)!

 1985年発表の甲斐バンドのアルバム、『ラヴ・マイナス・ゼロ』からの先行シングルの一枚として発表された「野獣-TheWild Beast-」という曲があります。おそらくそれにインスパイアされたのでしょう、一年後、甲斐バンドが解散した際に、当時<甲斐バンド評論家>だった亀和田武が発表した甲斐バンド評論本の題名が『愛を叫んだ獣』。

 ・・・亀和田さんなのか?ナウかった(笑)のは甲斐ではなく亀なのか!?

 すいません、全然甲斐よしひろの時代の先見性を示せてませんね。しかし、いまや完全に甲斐さんより亀和田さんの方が知名度あるんじゃないでしょうか。メディアに出まくりですもんねえ。この人、文筆業に入ったはじめは、甲斐バンドのツアーを追っかけるために勤めていた出版社を辞めた、という<筋金入り>らしいです。昔甲斐バンドのファンクラブ会報をまとめたを本を読んだとき、この人の書いた文章ばっか載ってた記憶があります。
 

 それはともかく、原作の<停滞していく世界に愛を見つけ出すために、あえて世界を破壊する>というメッセージと、この頃の甲斐バンドのイメージは妙に重なるものがあります。

 「わかってくれよ 心さ ボディーは二の次 夜が滴り落ちていく熱い指先 二人ボクサー そんな気になる 愛」「いくぜ 嵐のフィフティーンラウンド 危うい綱渡り 吹き荒れるハリケーン ふたりおちてく 今夜」

 書いてて赤面して舌噛んで死にたくなるような歌詞ですが、この「 野獣」に見られるように、あえて衝動的、刹那的な生の感情をストレートに<発振>しようとするのが当時の甲斐バンドの方法論でした。これはエリスンの小説だけでなく、この時代のサイバーパンクSF、ハードボイルド小説に共通した気分だと思います。

 このような破壊の中にこそ生の実感がある、というようなメッセージは別にその時代に限って現れるものではありませんが、マスコミュニケーションの発展に伴って、第1次世界大戦以降、大勢現れた戦場に身を置くことで自らの芸術を極めようとするアーティストたちの声が世界中に流通するようになった19世紀-20世紀に到って、明確に刻印されるようになったものです。

 とはいえ、ナポレオン戦争経験者、第1次世界大戦経験者、第2次世界大戦経験者、ベトナム戦争経験者・・・と、世代によってその様相は大分違ってきます。第1次世界大戦開戦当時芸術家たちが抱いていた、どこかのどかにすら感じられる悲壮なヒロイズムは、戦場の兵器がシャレにならない破壊力を持ち、芸術家たちが夢想する意思と意思の交歓などという次元をすっとばして、人間が兵器という無慈悲な神の前にただの屠殺される家畜以下の存在になりさがっていく過程でもろくも崩れ去ります。このような過程を通じて発振される声は、元のお題目めいた甘さとは一線を画しているように思えます。

 しかし、明確な戦場というものを知らず、たださめていく世界を見ているしかない日本人にとっては、<愛を叫ぶ>ことが強力なメッセージになりうるでしょうか?<戦後世代>と呼ばれるひとびとにとって、このことが常にディレンマとして存在します。国籍は違えど「世界の中心で愛を叫んだけもの」も、そのような立場から発振された声でしょう。某アニメも、大ヒット小説も、愛を探り出そうとしている点では同じだと思いますが、そこにはなにかしら書き割りめいた切迫感のなさ、なよなよとした意志薄弱さ(笑)を感じます。

 80年代は、金属製の武器ではなくフィジカル、身体性に拠って衝動を取り戻そうとした時期でした。この姿は滑稽、能天気、センス皆無、成金趣味(笑)に映じ、後に続く90年代は徹底的にこれを排撃し、退屈、無為無策のみを美としました。「セカチュー」も某アニメも、この空気を濃厚に取り込んでいるように思えます。


 しかし、21世紀は80年代の方法論に向き合うことで、止めてしまった<根源>へと向かう歩みを再び踏み出そうとしているようです。平和な、何事もない日常を揺り動かそうとする衝動は子どもじみて見えますが、その衝動をコントロールし、一点突破する武器に変えることでしか、ひとは自分をなにものかにすることはできない、その事実が目の前に再び重く立ちふさがっているのです。



今日の1冊

萩尾望都光瀬龍百億の昼と千億の夜

 『世界の中心で愛を叫んだけもの』に見られるような、エントロピー論の影響を色濃く受けて、1979年に萩尾望都光瀬龍作の日本SFの古典とも呼べる小説を漫画としてリクリエイトした傑作。

 萩尾望都といえば『ポーの一族』や『トーマの心臓』が代表作とされますが、僕の家にはなぜか萩尾望都のものでこの作品だけが僕が小学校低学年の頃からあり、意味もわからず、気に入った戦闘シーン(笑)を主に、それこそ擦り切れるまで暇さえあれば読んでいました。お蔭ですっかりナザレのイエスは小悪党だという偏った情報がバカな餓鬼の頭にインプットされてしまったのでした。

 徐々に運動を止めて冷え切っていく世界というイメージは僕の青春にも多大な影響を与え、人生とはほどけていく、喪失していくことなんだなあ、などとわかったような気になって文学してましたが、現実には田舎のなにも考えられない高校生、えらい理想の自分とのギャップでした。

 今、段々実感として<喪失>を知るようになって、実際大事なのは喪失することを知って無為でいるよりも、その喪失の過程をどのように抗うか、なのかな、などと、まるで養毛剤のCMのようなことを感じております(笑)。