ジョンブル気質

 またも<ナルニア>ネタですが・・・。

 ファンタジー、と一言でいいますが、そこにもお国柄というのがあらわれます。

 英国のファンタジー(というか児童文学)に共通するのは、子供にしか見えない世界、移ろいやすいま

ぼろしのようなときを舞台にすることです。それはガラスというよりも、綿菓子のようにはかなく、すべ

ての大人的な醜さをまだ知らないおさな心のみが許される世界です。

 本当の子供の世界、というのはむしろエンデの『はてしない物語』におけるバスティアンのように、は

てない欲望と憧れに胸つぶれそうになりながら、子供らしい無邪気さの仮面をまとって必死に周囲に合わ

せて生き延びようとしていくような、痛々しさに満ちたものであるように思えます(ちょっと暗すぎるで

しょうか・・・(笑))。英国的な子供像、というのは、あまりにも大人の目から見た子供の世界の理想

でありすぎる、とも批判できましょう。

 ですが、それでも英国児童文学が魅力的なのは、移ろい消えゆく夏の夕暮れを見ながら、落日と一緒に

去っていくのを感じていた自分の童心が、束の間、主人公たちと一緒に川辺を駆けていくのを見る、その

再会のせつなさにあるように思えます。どこにも存在しなかったけれど、いつでも一緒にいた、自分のふ

たご、影法師。

 「カスピアン王子の角笛」で、アスランを見ることができないスーザンやピーターは私たち自身でもあ

るのですが、それでもかれらのように、しばしは見えるようになることはいつでもできるのです。「最後

のたたかい」でアスランと一緒に、ナルニアよりもはるか去っていってしまったこどもたちは、きっとわ

たしたちの記憶の中にもいる筈です。たれかと一緒にナルニアのような魔法の世界をつくり出すことがで

きた奇跡のような瞬間は、いつもそこに留まってはくれません。わたしたちは皆、おしゃれに心を奪わ

れ、「ナルニア、そんな遊びも昔はしたわね、楽しかったわね」と自らはなれ行き、ひとり取り残された

スーザンのように、刹那のうすっぺらな喜びを選び取って生きなければならないのです。あたかも滝に飛

び込み、夢から覚めて個として歩みはじめることを選び取ったバスティアンのように。

 ただ、ルイスもキャロルもバリーも知っていたのに違いありません。魔法の瞬間は過ぎ去った過去にの

みあるのではなく、いつでも、空中を電気のように飛び回って、わたしたちの視界をかすめるのを待ち続

けているのだと、本を開く気持ちになったとき、ティンカーベルはわたしたちの傍にとまっているのだ

と。