書評『ライオンと魔女』

(この記事はあるところに掲載してもらうために書き直したもので、内容的には以前のものとかぶってる

ところがあります) 



 子どもの白昼夢の世界には、多くの日常が入り込んできている。


ルーシーがナルニアに行くのは洋服箪笥を通ってだが、そこには理屈からいえばあるはずのない街灯ま

でがなぜか立っている。後年の作品でルイスはこれを合理化したが、それこそ余計なお世話であり、これ

は実はナルニアにおいては自然なことなのだ、と僕は思う。


 子どもの心を奪うお話の中には、ところどころに日常との接点が開けている。メアリー・ポピンズが子

どもたちと空中旅行するのも洋服箪笥ではなかったか?すぐにも日常に侵食され、陽の光の前の雪の結晶

のように融解しそうな世界。それは<不完全>で、ひとりでは立ちゆかない世界である。そう、大人の目

から見た子どもたちのように。


 だが、その未完性によってこそ、こそもう白昼夢にひたることができないと思い込んでいる大人たち

も、現実の至るところに隠れているナルニアへの裂け目、入り口に分け入って、束の間でも子どもたちと

一緒に旅することができるのである。


 ルイスにとって、子どもの世界を描くのに成功しているのはこの作品のみであり、SF、歴史に関心の

移った次作以降では箪笥や街灯という結接点は見当たらない。かれにとっても、ナルニア国ものがたり

は、『ライオンと魔女』で垣間見たナルニアへの入り口を捜し求める旅だったのだろう。だが、ルイスは

ナルニアが完全な世界、日常とは隔絶して実存し得る世界だと思い込んでいた。あこがれのあまりに。そ

れゆえに、ついにはルーシーたちはもう戻れない世界に隔離されなければならなかった。まるで標本の蝶

のように。


 大人の真の残酷さとは、このようなかたちで現れるのではないだろうか。木々が唄い、動物が喋る世界

にぽつんとある街灯やトルコのお菓子、こうした隙のある美意識がはかない<異世界>の実存を産み出

しているというのに。


 アスランはキリストの転身ではない。ただ子どもたちのあこがれる強い動物の王様なのだ。